2022/04/28

折れたタワー(5)いじめとの関連


 「のりおを許すことができたのは、ひろしの中にどんな思いがあったからでしょう」これは教科書に記載されている中心発問です。この発問に対してどのような反応が考えられますか。子供たちから出る意見の一つとして、

ここで怒ったら、あとでもっとひどいことをされる

という発言を予想しないといけません。

 この発言は、子供たちの素直な思考ではないかと私は思います。この発言が生まれる要因は以下のように考えられます。

(1)実生活で同じような経験をしてつらい思いをした。

(2)自分が我慢すれば平穏な生活が送れると、日々の生活を通して実感している。

(3)のりおを「悪者」に仕立てたことで、対話ができない存在として認識している。

 さて、(3)については、「安易に悪者を生まない」ことの重要性を先日お伝えしていますので、ここで着目したいのは(1)や(2)の意見です。

 おそらく、「許してあげることが正解」だと子供たちは気づいています。この「あとでもっとひどいことをされる」という意見は、指導書通りの授業ならば教師のねらい(授業の流れ)に沿わない意見になります。突然このような発言があると困惑してしまうかもしれませんね。

 しかし、私はこのような「生活経験から生まれる発言」こそ、道徳科授業で大事にしたいと思っています。授業に混沌とするかもしれませんが、その混沌こそが切なる

対話を生むきっかけになるからです。

 さて、「もっとひどいことをされたら嫌だから許す」という判断(行為)は、決して道徳的な課題を解決できるものではありません。これは自身の苦しみや悲しみに蓋をする行為だからであり、他者への無関心です。子供たち自身も、その蓋がいつか外れてしまうことに恐れを抱いているかもしれません。道徳科授業では、そのような自己の隠された思いや、その思いを隠すための蓋の存在に、発問や対話を通して気づかせることが重要なのです。だからこそ、上記のような発言(児童の生活背景から生まれる発言)が大事になるのです。

 このことに対して、例えば、のりおの考えや思いを想像させるような発問が授業前半で必要になるでしょう。また、授業後半で役割演技を入れることも考えられます。のりお役の児童(教師でも可)の「どうして許してくれるの?」というセリフから演じさせ、ひろし役の児童の即興的な演技(対話)を引き出すのです。または、友人であるまさる役の「マスクを忘れたときにあれだけきつく責められたのに、よく許せたな。どうして許せたの?」という始まりでもいいでしょう。

 また、演技後のリフレクティングの場面で「ひろしは我慢していたのか?」と尋ねてみることもおもしろいかもしれません。もちろん。役割演技を取り入れる際は、演者をどの児童とするか、授業過程での児童の思考や発言の見取りも重要になります。

 この「折れたタワー」という教材で、「相互理解、寛容」と「いじめ」との関係性を考えたいものです。

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