道徳科授業の発問について、「行動の要因(なぜ◯◯は、〜をしたのだろう)を問うてはいけない」と教わったことがあります。私は「〜してはいけない」というような決まりがあまり好きではありません。多くの場合、理由が明確ではないからです。
そこで、この「なぜを問うてはいけない」という暗黙の決まりの理由を、私なりに考えてみました。
・「なぜ」と問うと、行動に着目させることになる。
・道徳科は心の勉強なので「どんな気持ちだったか」などのように問うべきである。
・「なぜ」は想像の自由度が増すので、授業が多方面に流れてしまう恐れがある。
などの理由が考えられました。しかし、本当に道徳科授業では「なぜ」と尋ねてはいけないのでしょうか。私は決してそう思いません。
ただし、「なぜ◯◯は〜をしたのだろう」と直接的に問うことで、子供たちが考えづらくなってしまう場面もあります。そのような場合は、「なぜ」を使わずに「なぜ」を問うことが必要になります。
例えば、いじめを止めようとする中心人物の変容について考えさせるとします。「なぜ◯◯は、やめようよと声をかけられたのかな」という発問を、「◯◯の『やめようよ』という言葉の中にあるのは勇気だけかな?」とすることで、多様な理由を引き出すことができます。「〜だけかな」というキーワードを提示することで、「先生、他にもあるよ!」という反応を期待できるからです。
これはほんの一例ですが、ここに授業づくりのおもしろさと難しさがあるといえるでしょう。「なぜ」を使わずに「なぜ」を考えさせる。「もしあなたなら」を使わずに「もし僕なら」を引き出す。そのような発問を日々の授業で考えていきたいものです。
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