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2023/10/25

5年生「うばわれた自由」[A「善悪の判断、自律、自由と責任」](2)


 本教材の登場人物ジェラール王は、「決まりを破った」のではなく、「自分の弱い心に負けた」と捉えることになります。題名が「うばわれた自由」なので、「誰に奪われたのか?」という発問も考えられます。結論を言うと、「自分に奪われた」ということになります。ジェラール王も、自分が家来を大事にしなかったから、自分の自由を奪われました。

 ジェラール王は、きまりを破ったのではなく、「自分を抑えられなかった」「自分の弱い心に縛られていた」ということに、例えば板書で視覚化を図るなどして気付かせます。そうすると、「自分を抑えたら自由ではないのでは?」という疑問(補助発問)が生まれ、「本当の自由とは、自分の弱さにも縛られないもの」という、高学年の学習内容についての気付きにつながります。

 その上で、中心発問としては「ガリューに言われて、ジェラール王は何を考えたのだろう」と問うことで、子供たちは深く考えようとするのではないでしょうか。

2023/10/24

5年生「うばわれた自由」[A「善悪の判断、自律、自由と責任」](1)


 5年生教材「うばわれた自由」について考えます。内容項目は、A「善悪の判断、自律、自由と責任」です。

 さて、本教材は人物の言動が対比的に描かれており、一見すると扱いやすさを感じます。しかし、実際に授業をしてみると、どうしても、C「規則の尊重」の視点に流れてしまいます。A「善悪の判断、自律、自由と責任」に子供たちの視線を向かわせるためには、「迷惑をかけない」「決まりを守る」という方向ではなく、「自分を抑える」という方向に授業を展開する必要があります。

 なぜ、「自分を抑える」ことが「自由」なのでしょうか。自分勝手は、自由ではありません。そうだとすると、「自分勝手は、何かに縛られている」ということになります。

 では、自分勝手は、何に縛られているのでしょうか。それは、自分の弱い心(欲望)です。だからこそ、自分を抑えることが必要となるのです。

 自分をコントロールできることが、自由である。自由とは、本来何にも縛られないものです。だから、本当の自由とは、自分の弱さにも縛られないものだということができます。このことが、高学年の学習内容となります。

(古代ローマの人々は、自由を大事にしました。そのために鍛錬を重視しました。当時から、「自分に厳しくすることが、自由」だったということです。)

2022/10/19

知らない間のできごと


 5年生教材「知らない間のできごと」について考えます。内容項目は、A「友情、信頼」です。

 本教材は、あゆみ(転入生)と、みかの二人の視点で描かれています。あゆみが携帯電話を持っていないことに驚いたわたしが、「今度の転校生、携帯を持ってないんだって。友達あまりいないみたい。これはすいそくだけど。」と、学級の友達にメールを送ってしまいます。しかし、そのメールが「今度の転校生は、携帯を持ってないから、仲間外れにされて、この学校に入ってきたらしい」という内容になって広まってしまいます。

 さて、この教材(みかの言動)に対する子供たちの素直な感想として、「自分も悪いけれど、友達にしか送っていないのだから、勝手に内容を変えて送った友達のせいだ」という意見をもつ子はいないでしょうか。対して、「友達も悪いけれど、思い込みでメールを送った私が悪い」と発言する子も多いでしょう。

 授業の中で、前者の意見もぜひ大切にしたいところです。もし、実際に教材のような事案があった場合、あゆみに連絡をするより先に、メールを送った友達に「あのメールだけど、他の誰かに送った?どんなふうに送った?」と確認しようとしてしまうのではないでしょうか。「自分は悪くない」と思いたい人間の弱さから生まれる行動だと言えます。その弱さを自覚させたいところです。

 さて、この「道徳的価値のよさ」と「人間の弱さ」という両者の立場の意見が対立した時に、「あゆみ(転入生)の立場で考えると、どのような行動をしてほしいか。それはなぜか。」と尋ねてみてはどうでしょうか。高学年の「友情、信頼」では、「本当に相手のためになることは何か」を考えさせることが重要になります。転入してきて不安に思っているあゆみの心を救うために大切なことは何かを考えさせることを通して、友情を深めるために大事にしたいことについての自己の理解を深めさせます。

2022/08/02

うばわれた自由


 「自由があったら、どんなことをしたい?」と尋ねると、子供たちは(大人も)様々なことを想像するでしょう。好き勝手な願望を発言する子もいるでしょう。しかし、教材「うばわれた自由」を読んだ子供たちは、「ジェラール王子はおかしい!」「わがままはいけない」と感想を述べます。

 ここに、思考の「ずれ」が生じます。「あれ?みんなはやりたいことをたくさん発表していたのに、教材の中のジェラール王子の行動には反対なのですね。なぜ?」と尋ねてみると、子供たちに「伝えたい!」が生まれます。このように、導入での発言と教材を読んだ感想を対比させることで、「自由には、きまりを守ることが大切」ということに気づかせます。

 さらに、そこで「では、もっときまりがあったほうがいいよね」と問い返すことで、「きまり」についての理解を深めていくこともできるでしょう。


2022/07/28

「大人役」の演者について

 前記事に続いて、5年生教材「のりづけされた詩」での役割演技を通して、今回は「大人の演者」について考えます。

 本授業での役割演技の場面は、担任の先生と中心人物(和枝)の二名が登場します。中心人物は児童が演じました。では、担任の先生を誰が演じたらよいか。このことについて述べてみます。

 役割演技では、授業者は「監督役」になります。授業者が演者になってしまうと、どうしても誘導的な演技になってしまったり、演じている際の観客役の子供たちへの配慮ができなくなってしまいます。それでは、役割演技で大事にする「即興性」が妨げられてしまいますし、観客役の反応を授業者が把握していないので事後のリフレクティングが薄れてしまいます。

 では、本授業での担任の先生役を児童が演じればよいのか。それも厳しいと判断しました。担任の先生の思いを子供たちが想像することは難しいと判断したからです。そこで、本授業では学年の先生に参観をしてもらい、演者としての登場をお願いしました。実際に教師が先生役をしたほうが、演技場面がより現実に近づきますし、教師としての実際の反応が演者の即興性を引き出すと思ったからです。

 早川(2017)も、『子供が演じづらい役割は他の教師や授業参観の保護者に依頼するなどして、授業者は役割演技の監督としてその役割の遂行に専念することが肝要である。学習指導要領で、保護者との連携は重要視されている』と述べています。

 どうすれば子供たちが本気で演じられるか、必要に応じて授業者以外の大人が演者になることを計画してはどうでしょうか。


《引用参考文献》

早川裕隆『実感的に理解を深める!体験的な学習「役割演技」でつくる道徳授業』(2017,明治図書)

2022/07/27

役割演技で気をつけたいこと

 5年生での2回目の役割演技(教材は「のりづけされた詩」)をした時のこと。授業後に演者の児童は役割演技をした感想を書いていました。

私は「のりづけされた詩」という話で、最後の場面を演じた。演じてみた時の心が今も残っている。とても苦しかったし、焦りもした。主人公もたぶん、心が苦しくなったと思った。自分と主人公が一体化した人間になった気持ちだった。その上、こんなに苦しくなったのは今までなかったし、地面にひびが入って足場をなくしている状態みたいだった。非常にわかりやすかった。

 この感想を読み、授業者である私はハッとさせられました。演じた場面は、中心人物が担任の先生に、自分の非道徳的な行為(詩の盗作)を打ち明けるところでした。

 演者の児童は、中心人物になりきり、行為を反省し、自分ごととして葛藤しながら打ち明けました。その時の気持ちが感想の中で「こんなに苦しくなったのは今までなかった」「地面にひびが入って足場をなくしている」と綴られていました。

 果たして、この児童にそこまでの苦しさを実感させる必要があったのだろうか。授業後に悩みました。中心人物の苦しみや葛藤を実感させることは道徳科授業で大切にされていることですが、その実感が強く自分ごとになったとき、その子自身を苦しめてしまわないだろうか。そのように反省をしました。この授業のねらいは何なのか。演技をさせる目的は明確か。演者への配慮はされているのか。これらの視点を授業者が大事にしなければならないということに気づかされました。早川(2017)も、『役割演技の授業者として大切なことは、その授業のゴールを予想すること』と述べています。

 なお、本授業では、打ち明けた後の心情に焦点を当て、その時の心情が自分自身の誠実さであるという理解を促すこと、それをもとに自分の行き方を考えさせることが大事であったと、今は思っています。

 さて、上記のことは「いじめの場面を役割演技させてはいけない」ということにも共通していることを追記しておきます。安易にいじめ場面を演技させることは、いじめの増長やフラッシュバックを引き起こす可能性があるということを認識しておきたいです。


《引用参考文献》

早川裕隆『実感的に理解を深める!体験的な学習「役割演技」でつくる道徳授業』(2017,明治図書)

2022/07/07

公正、公平、社会正義〜5年生「名前のない手紙」〜(2)


 教材「名前のない手紙」の内容項目は「公正、公平、社会正義」です。小学校学習指導要領には「公正」や「公平」についての詳しい説明はありません。そこで、中学校の学習指導要領解説を読むと、以下のように記載されています。


 

 このように、隣接学年の学習指導要領解説(5年生の授業であれば、3・4年生と中学校)に目を通しておくと、内容項目や指導過程の理解が広がり、授業づくりに生かすことができるでしょう。


2022/07/05

公正、公平、社会正義〜5年生「名前のない手紙」〜


 内容項目「公正、公平、社会正義」(高学年)の授業について考えます。学習指導要領解説のなかに(図1)のような記載があります。

            (図1)学習指導要領における「傍観者」に関する記載


 この記載を見ると、小学校高学年の内容項目「公正、公平、社会正義」の授業では「傍観者」についての対話(思考)が重要になると考えられます。

 また、学習指導要領解説の中には(図2)のような記載もあります。

                (図2)SOSに関する記載について


 このように、道徳科授業の中で「SOSを出すことの大切さ」について考えさせることも、大変重要であるといえます。


2022/04/29

折れたタワー(6)『無関心という寛大』を防ぐ


 先日の記事で「ここで怒ったら、あとでもっとひどいことをされる」という児童の発言について論じました。この発言は子供たちの生活背景から生まれる発言であり、道徳科授業で大事にしたい発言になります。しかし、この思考過程は他者(本教材ではのりお)の思いや経験に対する関心はなく、自分を守ることだけに着目している思考だといえます。他者に対して「無関心」なのです。

 さて、この「無関心」について、髙宮(2020)は『無関心という寛大』(ブルーム,1998)という概念を説明しています。現在、多様性が強く求められていますが、多様性とは他者の意見を無条件に受け入れることではありません。これは、他者に対して閉じている状態になります。他者を理解しようとせず、無条件に受け入れたり許したりすることは、「無関心という寛大」の増加につながるということです(下図参照)。


髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり  教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成


 教材「折れたタワー」においても、ひろし(中心人物)になったつもりで、のりおの行為の背景に関心をもち、自ら対話しようとする経験をすることを通して、他者を理解しようとすることのよさと難しさを実感することが必要だと言えるのではないでしょうか。


《参考引用文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(2020,北大路書房)

2022/04/28

折れたタワー(5)いじめとの関連


 「のりおを許すことができたのは、ひろしの中にどんな思いがあったからでしょう」これは教科書に記載されている中心発問です。この発問に対してどのような反応が考えられますか。子供たちから出る意見の一つとして、

「ここで怒ったら、あとでもっとひどいことをされる」

という発言を予想しないといけません。

 この発言は、子供たちの素直な思考ではないかと私は思います。この発言が生まれる要因は以下のように考えられます。

(1)実生活で同じような経験をしてつらい思いをした。

(2)自分が我慢すれば平穏な生活が送れると、日々の生活を通して実感している。

(3)のりおを「悪者」に仕立てたことで、対話ができない存在として認識している。

 さて、(3)については、「安易に悪者を生まない」ことの重要性を先日お伝えしていますので、ここで着目したいのは(1)や(2)の意見です。

 おそらく、「許してあげることが正解」だと子供たちは気づいています。この「あとでもっとひどいことをされる」という意見は、指導書通りの授業ならば教師のねらい(授業の流れ)に沿わない意見になります。突然このような発言があると困惑してしまうかもしれませんね。

 しかし、私はこのような「生活経験から生まれる発言」こそ、道徳科授業で大事にしたいと思っています。授業に混沌とするかもしれませんが、その混沌こそが切なる

対話を生むきっかけになるからです。

 さて、「もっとひどいことをされたら嫌だから許す」という判断(行為)は、決して道徳的な課題を解決できるものではありません。これは自身の苦しみや悲しみに蓋をする行為だからであり、他者への無関心です。子供たち自身も、その蓋がいつか外れてしまうことに恐れを抱いているかもしれません。道徳科授業では、そのような自己の隠された思いや、その思いを隠すための蓋の存在に、発問や対話を通して気づかせることが重要なのです。だからこそ、上記のような発言(児童の生活背景から生まれる発言)が大事になるのです。

 このことに対して、例えば、のりおの考えや思いを想像させるような発問が授業前半で必要になるでしょう。また、授業後半で役割演技を入れることも考えられます。のりお役の児童(教師でも可)の「どうして許してくれるの?」というセリフから演じさせ、ひろし役の児童の即興的な演技(対話)を引き出すのです。または、友人であるまさる役の「マスクを忘れたときにあれだけきつく責められたのに、よく許せたな。どうして許せたの?」という始まりでもいいでしょう。

 また、演技後のリフレクティングの場面で「ひろしは我慢していたのか?」と尋ねてみることもおもしろいかもしれません。もちろん。役割演技を取り入れる際は、演者をどの児童とするか、授業過程での児童の思考や発言の見取りも重要になります。

 この「折れたタワー」という教材で、「相互理解、寛容」と「いじめ」との関係性を考えたいものです。

2022/04/26

折れたタワー(4)


 本教材の学習内容について、

(1)自分も過ちを犯すことがあるという自覚をさせる。

(2)言葉の裏側にある背景や思いを理解しようとすることの大切さに気づかせる。

 上記の二点がポイントになると先日お伝えしました。要するに、この二点について対話を促す発問や授業展開を考える必要があるということです。

 「自覚」という言葉を上記で使っていますが、髙宮(2020)は「道徳的価値の自覚」について、『すでに感情的には大切さを実感できていることであっても、その大切さを改めて知的に理解すること』が重要であるとしています。その理解を通して『児童生徒がみずから自分の内面のなかに内なる規律をつくり、それに基づいて行為すること』を期待するのです。

 また、「自分も過ちを犯すことがあるという自覚をさせる」という学習内容は、道徳科授業における「人間理解」になります。児童生徒に教材のなかの「悪人」を探させるのではなく、自分の「弱さ」を自覚することで他者を安易に裁いたり批判させたりすることを防ぐと髙宮(2020)は述べています。なお、このような「人間理解」は、将来的にSNS上での誹謗中傷を防ぐ効果もあるといえるでしょう。日々の道徳科授業で、その素地を育てていくということが大事になるのです。

 ただし、「自分も過ちを犯してしまうという自覚」という「人間の弱さ」を理解するだけでは、実際の道徳的行為にはつながりません。そこで大事になるのか、2つの視点をもとにした問いづくりです。

【阻害条件】(例)「どうしてなかなか相手を受け入れることができないのか」

【促進条件】(例)「どうしたら広い心をもてるのか」

このような条件を問うことで、道徳的価値の実現に何が必要なのかを理解させるのです。


《参考引用文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(2020,北大路書房)

2022/04/25

折れたタワー(3)


 学習指導要領解説「相互理解、寛容」の記載から、「折れたタワー」の授業づくりに係るポイントを抜粋します。

(以下、学習指導要領解説より抜粋。)

(1)寛大な心をもって他人の過ちを許すことができるのは、自分も過ちを犯すことがあると自覚しているからであり、自分に対して謙虚であるからこそ他人に対して謙虚になることができる。

(2)自分自身が成長の途上にあり、至らなさをもっていることなどを考え、自分を謙虚に見ることについて考えさせることが大切である。

(3)指導に当たっては、相手の過ちなどに対しても、自分にも同様のことがあるとして謙虚な心、広い心で受け止め、適切に対処できるように指導する。

(以上)

 上記の記載を整理すると、学習のねらいはこのようになるでしょう。

 ・自分も過ちを犯すことがあるという自覚をさせる。

 ・言葉の裏側にある背景や思いを理解しようとすることの大切さに気づかせる。

 「折れたタワー」の授業づくりの際には、子供たちがこれらのことを真剣に考えられるような発問や展開が必要になると言えます。

2022/04/24

折れたタワー(2)


 5年生教材「折れたタワー」について考えていきます。

 本日は、本教材の登場人物「のりお」に注目してみましょう。マスク忘れのぼくに対して「どうしてくれるんだ」「あやまれよ」と、大きな声でどなる姿。級友のまさるが諭してくれた後も、ぶつぶつ文句を言っている姿。どうでしょう。教室の「あの子」を想像できませんか。おそらく、そのような姿と日常的に接している先生も多いのではないでしょうか。

 本教材の授業前半で、のりおの言動に対して怒りを抱かせる展開(発問)がよく見られます。僕(ひろし)の悲しみや怒りに共感させることで、後半の発問につなげるためです。

 しかし、道徳科の授業のなかで安易に「悪者」を作り上げていいのでしょうか。他者への怒りを誘導する必要があるのでしょうか。私は反対です。その子の特性を理解しようとせず、行為のみで悪者を作り上げるようなことを道徳科授業ですべきではないと考えています。

 のりおは、ひろしのマスク忘れについて大きな声で怒ります。もしかすると、給食当番という役割に人一倍責任感をもっているのかもしれません。作品を壊してしまったことも、もしかすると不注意でいつも同じようなことをしてしまい、心の中で反省をしているかもしれません。のりおは、給食当番に対して、忘れ物やマスクの用意に対して、どのような見方をしているのでしょうか。そのことを考えさせることが大事なのではないでしょうか。

 だからこそ、のりおを悪者に仕立て上げるのではなく、想像を広げさせ、のりおの見ている景色や思いを理解しようとすることを授業前半に取り組んだほうがよいと考えます(ここでは構成的グループエンカウンターのエクササイズ「短所を長所に」が効果的です)。それに、もしのりおを悪者に仕立てたとすると、学習内容は「気に入らない相手も許してあげることが大切だ」というようなものになってしまいます。しかし、学習指導要領解説の内容を読んでもそのような記載はありません。

 解説に書かれている内容をまとめると、「相手の考え方や意見、立場を広い心で謙虚に受け止めることで、自分の見方や考え方が豊かになる」ということを自覚させることが大切になるのです。「気の合わない相手を我慢して許す」のではなく、相手が大事にしていることや思いを知り、それを受け止めることで自分の見方が豊かになる」という内容を学ばせることこそ、本教材のねらいになるのだと考えます。

2022/04/23

折れたタワー(1)


 日本文教出版5年教材「折れたタワー」について考えていきます。

 まず、内容項目を見てみましょう。本教材の内容は「相互理解、寛容」です(なお、低学年には該当項目はありません)。


(1)【自分の考えや意見を相手に伝える】

 本内容には、全ての発達段階に共通して「自分の考えや意見を相手に伝える」という記載があります。他者のことを理解するには、まず自分の思いを伝えること(自己開示)が大切であるということを示しています。教材の中のぼく(ひろし)は、自分の思いをきちんと伝えられていたのか。その視点が授業づくりのポイントの一つになると考えられます。実際にぼくの思いを伝えてみるという体験(役割演技)も効果的になるでしょう。


(2)【広い心の矢印の向き】

 それぞれの学年の内容は以下のようになります。

(以下、学習指導要領解説より一部抜粋)

『中学年』

 「(前略)相手のことを理解し、自分と異なる意見も大切にすること。」

『高学年』

 「(前略)謙虚な心をもち、広い心で自分と異なる意見や立場を尊重すること。」

『中学校』

 「(前略)それぞれの個性や立場を尊重し、いろいろなものの見方や考え方があることを理解し、寛容の心をもって謙虚に他に学び、自らを高めていくこと。」

(以上)

 どの発達段階も「自分と異なる他者を理解する」ことに重きが置かれています(その「他者を理解する」ということを「広い心」と表現することもあります)。

 では、何のために他者を理解する必要があるのでしょう。ここで大事にしておきたいポイントは、「他者の考え方を知ることで、自分の世界が広がる(見方や考え方が豊かになる)」ということを自覚させるということです。補助発問として、「なぜ、相手の思いを理解しようとする必要があるの?」と尋ねてみてもおもしろいかもしれませんね。

 道徳科の目的は、簡単にまとめると「他者や教材を鏡として自分を映し出すことで、自分の経験や考え方をふり返り、生き方を考えること」になります。本教材では、作品を壊してしまったひろしを許すかどうかに注目してしまいがちですが、大事なことは他者(のりお)の思いを理解しようとするぼく(ひろし)の心が豊かになっていることに気づかせることになります。「広い心」の矢印は、自分(ぼく)に向くことを自覚させることをねらいとすべきなのです。


《参考引用文献》

『道徳科「深い学び」のための内容項目ハンドブック』(2020,日本文教出版)