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2024/02/07

本がかりさん がんばっているね(1)〜発達段階〜


 小学校2年生の教材「本がかりさん がんばっているね」(日本文教出版)の授業づくりについて考えます。

 学習指導要領解説で内容項目C「勤労、公共の精神」の指導の要点を読むと、下記のように記載されています。

 低学年の発達段階が「みんなのために働くことを楽しく感じている児童が多い」と記載されているのに対して、中学年は「働くことを負担に感じたり、面倒に思ったりする様子も見られる」とあります。

 2年生で扱う本教材にも、「だんだん面倒になってきた」「昼休みがなくなると、損だね」等の記述があります。これらの記述を取り上げ、働くことの負担や大変さを子供たちから引き出そうとしがちですが、それは中学年で取り上げるべき内容(人間理解)であり、低学年で扱う本教材では、教材前半の「働くことへの意欲」や、後半の「働くことの喜びや充実感」に焦点を当てた方がよいということが言えそうです。

2022/10/16

脱中心化と道徳科授業(2)


 子どもの発達に必要な「脱中心化」(ピアジュが提唱)について、他者の立場に身を置くこと、すなわち自己と他者の同一視が、脱中心化にとって不可欠のステップになると、河野(2011)は述べています。

 さて、小学校6年生に「杉原千畝 ー大勢の人の命を守った外交官ー」という教材があります。この教材を扱った授業に何度も取り組んできましたが、小学生に杉原千畝の気持ちを考えさせることはとても困難であると感じていました。そうであれば、杉原千畝の気持ちを想像させるのではなく、杉原千畝の言動について、自分の立場からそのよさや難しさを考えさせることのほうがよいのではないかと考えていました。

 しかし、ピアジュの「脱中心化」という視点から改めて考えてみると、小学生の子ども達が、自らの視点と異なる杉原千畝の立場に身を置き、その葛藤や決断の背景を理解しようとすることこそ、子ども達の成長につなげるための不可欠なステップなのではないかと考えます。

 「偉人と呼ばれる人の心情を想像することは難しいけれど、成長のステップに不可欠なことである」という思いで、杉原千畝をはじめとする偉人教材に取り組むことが道徳科授業では大事になるのではないでしょうか。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(2011,ちくま書房)

2022/02/07

いつもと異なる〜発問を考える〜


 トム・アンデルセンの著書『リフレクティングプロセス 会話における会話と会話』から、授業者が行う「発問」というものを分析していきます。

 (以下、著書より抜粋)

差異という語を日常的に移し替えるために「いつもと異なる(un-usual)」という言葉を選んだ。人はいつも同じ状況に置かれたままでいると、同じ状態に留まりやすい。何かいつもと異なる状況に出くわしたならば、その状況は変化を引き起こす可能性がある。出くわす新しい状況がいつもとあまりに違いすぎると、人は刺激されないように殻にとじこもってしまう。それゆえ、援助者であると思われている我々が努力しなければならないことは、我々が参加しているこれらの人々との会話では、いつもとは違っていても違いすぎない何かを提供することである。これは我々が出くわす状況、会話が含有するテーマや争点、会話の進み方や形式を構成するルールである。

(以上)

 トム・アンデルセンのこの言葉は、私たちが「発問」を考える際に大事にすべきことを言い表しています。「いつもと異なる」という感覚を引き起こすような発問をすることで、子供たちの状況(この場合では価値理解)の変化を引き起こすことができるとともに、いつもと違いすぎてもいけない。後者は、子供の発達段階や実態をしっかりと考慮する必要があるということを意味しています。はじめから答えの分かっているような発問を幾度繰り返したとしても、子供たちの「いつもと異なる」は生まれません。そこに、授業づくりの難しさと面白さがあるといえます。


《引用参考文献》

トム・アンデルセン著 鈴木浩二監訳『リフレクティングプロセス 会話における会話と会話』(金剛出版、2015)

2021/12/19

脱中心化


 本日も河野哲也氏の『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』を参考に道徳科授業について考えていきます。

 ピアジュは、「子どもの発達は脱中心化にある」としています。このことについて、メルロ=ポンティは「ピアジュによる発達の定義そのものは間違っていないが、真の問題は、脱中心化がどのように獲得されてゆくかである」と論じています。

 道徳科授業での学びを深めるために、ビアジュのいう「脱中心化」という概念がヒントになるのではないでしょうか。では、子どもの発達を促す「脱中心化」は、どのようにすれば生まれるのでしょうか。

(以外、著者より抜粋)

 脱中心化を達成するには、他の視点への「再中心化」を幾度も経なければならない。他者の立場に身を置くこと、すなわち自己と他者の同一視は、脱中心化にとって不可欠のステップである。それは、理性にとって共感が不可欠の基盤であることを意味する。

(以上)

 道徳科授業では、登場人物の心情を自分ごとと捉えて考えさせることが多いです。まさに「他者の立場に身を置く」ということになります。

 脱中心化は他者との関係のなかで育まれるものとされていますが、子ども達が日々接することのできる他者は限られています。だからこそ、道徳科授業に大きな意義があるのではないかと私は思いました。教材の中の多様な他者の立場に身を置くことが脱中心化を促すきっかけになるのではないかと考えたからです。

 おそらく、単に登場人物の立場に身を置くだけではあまり意味をもたないかもしれません。そこに、他者(級友)の異なる価値観を知ることにより、新たな見方・考え方を獲得することができます。そのことこそが、ビアジュのいう「脱中心化」の過程になるのではないでしょうか。

 これまでに何気なく発していた発問や学者展開も、哲学の分野とつなげて考えてみると新たな意味が見えてきます。我々には新たな意味かもしれませんが、実は過去からつながる叡智に気づくことができるということかもしれません。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(ちくま書房,2011)

2021/08/04

二わのことり(1)

教材研究 小学校1年生「二わのことり」〜発達段階を考慮して〜


【やまがらの悲しさ】

 昨日の記事で「発達段階を意識する」ということに少し触れました。本日は実際に教材を通して考えてみようと思います。教材は小学校1年生の定番教材、「二わのことり」(友情、信頼)です。本文は教科書で確認ください。

 さて、この教材の最後の文章を抜粋します。


(以下、教材から抜粋)

「よくきてくれましたね。きょうはもうだれもきてくれないかとおもっていたんです。」やまがらは、うれしそうにいいました。

 やまがらの目には、うっすらとなみだが見えました。

(以上)


 誕生日会に誰も来てもらえなかった、やまがら。その様子を想像するだけで、読み手は悲しい気持ちにさせられます。(もし、我が子の誕生日会に友達が誰も来てくれなかったら・・・。そう考えるだけで涙が出てきそうです。なんて悲しい教材なのでしょう。)

 ここで着目したいのは「やまがらの目には、うっすらとなみだが見えました」のところです。中心発問としてよく活用される場面ですね。ところで、この涙は、「嬉しい涙」ですか。それとも、「悲しい涙」ですか。じっくりと考えてみてください。


【嬉しい涙】

 もし、この涙を「嬉しい涙」とするのならば、一つ疑問が生じます。それは、一年生の発達段階として「嬉しくて涙が出る」ということを理解できるのかということです。おそらく、日常生活で嬉し涙を流した経験はないのではないでしょうか。「涙=悲しい」と認識している子が多いでしょう。そのような1年生の子ども達に、「やまがらの涙を見て、みそさざいはどんな気持ちだったのでしょうか」と発問をすると、どのような反応が予想できるでしょうか。教師のねらいとして「やまがらが喜んでいる気持ちを想像させたい」と思うのなら、その喜びに気づかせる手立てが必要になるでしょう。


【悲しい涙】

 逆に、この涙を「悲しい涙」とするのならば、子ども達の思考は「反省」の方向に向かいます。「悲しい思いをさせてごめんね」「次からはあなたのことも大切にするよ」。そのような発言が出てくるでしょう。それだけでは、この教材でのねらい「相手が喜んでくれると、自分も嬉しい」という道徳的価値に気づきにくくなるかもしれません。


【受容するということ】

 この涙の理由に正解を決める必要はありません。なぜなら、悲しさもあり、喜びも生まれたのですから。さみしい思いを経験したことのある子は「悲しい涙」と理解するでしょうし、いつも友達とたくさん遊んでいる子は「嬉しい涙」と理解するかもしれません。大切なことは、それらの意見の理由を教師が「受容する」ということです。「もっと聞かせてほしいな」「なるほど。そう考えるのだね。みんなもわかるかな?」と受容してあげることで対話が始まります。その対話の中で、友達の意見との共通点を見つけたり違いを理解したりすることが、深い学びにつながるのです。


【授業づくりの視点】

 さて、このように発達段階を考慮して教材を読む視点を大切にすることで、授業展開や補助発問のイメージが浮かび上がってきたり、様々な手立ての必要性を感じたりできます。授業においても、自然な対話の発生が期待できます。他にも、「この学級なら」「気になるあのの子なら」という、担任の視点も大切にできると、この時、この学級だからこそできる道徳授業が生まれます。

 なお、道徳科の授業づくりで意識したい発達段階については、学習指導要領解説に書かれていますので、ぜひそちらを参考にしてください。

2021/08/03

あやまるということ

『あやまるということ』


「ごめんね」「いいよ」。小学校であれば、どの教室でも見られる光景です。このやりとりを「型にはめている」と批判的に語る方もおられますが、実際のところ子ども達はどのように感じているのでしょうか。言葉で「ごめんなさい」と言わせることに価値はあるのでしょうか。

 このことについて、長谷川真里氏の著書「子どもは善悪をどのように理解するのか?道徳性発達の探求」の中で紹介されている実験結果から考えてみます。長谷川氏は、著書の中で以下のように述べています。

(以下、抜粋)

 子どもはいつから誠実な謝罪を理解できるだろうか。どうやら、小学一年生では十分に理解できていないらしい。(中略)一年生は、悲しそうな表情でも嬉しそうな表情でも、謝罪の言葉がないと怒りが増大し、謝罪の言葉があると怒りが減少した。つまり、表情よりも謝罪の言葉の有無が判断材料となるようだ。このように、表情と言葉を統合して謝罪を理解するのは、三年生以降に持ち越されるのかもしれない。

(以上)

 一年生の児童にとって、「相手が反省している(申し訳なさそうな表情をしている)」ということより、言葉で「ごめんね」と言ってもらえる方が怒りが減少するということが実験からわかります。

 このことを、道徳科の授業づくりに生かしていきます。「ごめんね」という言葉は「あやまってもらえた」という『行為の結果』に当たります。低学年の授業を考える際に大切なことは、この『行為の結果』を想像させることなのです。

 例えば、「思いやり,親切」について考えさせる時、親切にした結果、自分や相手、周りの人がどのような気持ちになるかを考えさせます。この時、多面的・多角的な思考を求めて相手の気持ちや立場を考えさせようとしても、低学年の児童にとって発達的に難しいものとなってしまう可能性があります。他の内容項目でも同様のことが言えます。

 このように、子ども達の発達段階を知ることも、道徳科の授業力を高める手立てとなります。