2021/08/03

あやまるということ

『あやまるということ』


「ごめんね」「いいよ」。小学校であれば、どの教室でも見られる光景です。このやりとりを「型にはめている」と批判的に語る方もおられますが、実際のところ子ども達はどのように感じているのでしょうか。言葉で「ごめんなさい」と言わせることに価値はあるのでしょうか。

 このことについて、長谷川真里氏の著書「子どもは善悪をどのように理解するのか?道徳性発達の探求」の中で紹介されている実験結果から考えてみます。長谷川氏は、著書の中で以下のように述べています。

(以下、抜粋)

 子どもはいつから誠実な謝罪を理解できるだろうか。どうやら、小学一年生では十分に理解できていないらしい。(中略)一年生は、悲しそうな表情でも嬉しそうな表情でも、謝罪の言葉がないと怒りが増大し、謝罪の言葉があると怒りが減少した。つまり、表情よりも謝罪の言葉の有無が判断材料となるようだ。このように、表情と言葉を統合して謝罪を理解するのは、三年生以降に持ち越されるのかもしれない。

(以上)

 一年生の児童にとって、「相手が反省している(申し訳なさそうな表情をしている)」ということより、言葉で「ごめんね」と言ってもらえる方が怒りが減少するということが実験からわかります。

 このことを、道徳科の授業づくりに生かしていきます。「ごめんね」という言葉は「あやまってもらえた」という『行為の結果』に当たります。低学年の授業を考える際に大切なことは、この『行為の結果』を想像させることなのです。

 例えば、「思いやり,親切」について考えさせる時、親切にした結果、自分や相手、周りの人がどのような気持ちになるかを考えさせます。この時、多面的・多角的な思考を求めて相手の気持ちや立場を考えさせようとしても、低学年の児童にとって発達的に難しいものとなってしまう可能性があります。他の内容項目でも同様のことが言えます。

 このように、子ども達の発達段階を知ることも、道徳科の授業力を高める手立てとなります。


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