自分を物語る授業(6)〜その思いを受けついで〜
【教師の受容的態度】
C児の「ちょっと長くなりますが・・・」という前置きから始まった「物語り」。発言することに遠慮しているC児に対して、授業者として優しく微笑みかけるように「どうぞ」とだけ伝えました(これは授業者の意識ですので、実際に子ども達がどのように感じたかは分かりません)。「あなたの思いを伝えてもいいよ。静かに聞いてくれる友達がここにいるよ。先生も、あなたの話が聞きたいな」というメッセージを、「どうぞ」という短い言葉に込めました。
C児はこのように発言しました。
(一部抜粋)
私はこのお話を読んで泣きそうになりました。私も入院した時があって、その時たまたまおじいちゃんも入院していて、ずーっと私と遊んでくれていました。そんなおじいちゃんも3年前に亡くなりました。だから、この話に出てくる僕の気持ちがすごくわかります。ノートに書けないぐらい悲しいです。この1〜2行を読むと、目から涙が出てきました。おじいちゃんから僕への愛が伝わってきました。
(以上)
この発言の後、C児の目からは涙がこぼれていました。続けて数名が自分の感想を発表していきます。その時、D児が「Cさんと少し似ているのですが、・・・」と語り始めました。
【〇〇と似ていますが】
今回は、この「少し似ているのですが」という言葉に注目してみます。
例えば、「答えは◯です」「いいでーす」という場面を見かけます。私はこの姿を常に残念だと感じています。子ども達の思考が感じられず、条件反射的な発言になっているからです。
しかし、このD児の「Cさんと少し似ているのですが」という言葉には、D児の葛藤や共感が込められた言葉であったと思われます。
自分を経験を物語ることに不安を感じることは当たり前のことです。自分が話すことに興味をもってもらえるかな。批判されないかな。そのような葛藤を抱きながら、でも「伝えたい」という思いが溢れ出し、物語りが始まります。ですから、伝え終わったあとも、心の中にモヤモヤが残る場合があります。
その瞬間、「〇〇さんと似ているのですが・・・」という発言が聞こえてきたらどうでしょうか。その言葉で、「私の話を聞いてくれていたんだ!」「同じように考えている人がいたんだ!」と感じることができます。自分を受け入れてもらえた喜びを感じることができるのです。
D児の「Cさんと少し似ているのですが」という言葉は、きっとC児の心を救ったことでしょう。日常の教室にあふれている言葉かもしれませんが、そこに受容的な態度が自然と込められている。そのような環境でこそ、「自分を物語る」という行為が成立するのです。
【感じ方の交流】
さて、ここまで「自分を物語る」道徳授業について述べてきました。この「物語る」という行為について、どの学年のどの授業でも成立するのかと尋ねられたら、それは難しいかもしれません。しかし、「生命」や「自然」を扱う授業においては、大きな効果を発揮するものだと実感しています。
このことについて、藤川大祐氏も、著書「道徳授業の迷宮〜ゲーミフィケーションで脱出せよ〜」(学事出版)の中でこのように述べています。
(以下、抜粋)
「主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること」については、突き詰めると個人の信念や信仰に関わることを踏まえ、無理に議論させるのではなく、児童生徒が互いの感じ方を交流する授業を検討する。」
(以上)
「互いの感じ方を交流する」ということが、「自分の物語りを伝え合う」ということと合致します。もちろん、感じ方は一つではありませんので、否定的な「物語り」も生まれるかもしれません。しかし、否定的な「物語り」も、その子を作り上げている大切な過去ですので、教師は受け止めてあげてください。そこに、道徳科授業の大きな意義が生じるからです。
【教師の説話】
学習資料要領解説の「道徳科に生かす指導方法の工夫 」の中で、教師の説話に関して以下のように記載されています。
(以下、学習指導要領抜粋)
教師が自らを語ることによって児童との信頼関係が増すとともに,教師の人間性が表れる説話は,児童の心情に訴え,深い感銘を与えることができる。
(以上)
教師の説話に関して、そのものを実施しない授業もあります。なぜかというと、説話そのものに「価値理解の誘導」を感じる子どもが教室にいるからです。
しかし、ここまで紹介してきた「その思いを受けついで」の授業では、教師の説話の時間をきちんと確保しました。それは、子ども達の「伝えたい」と同様に、教師にも「伝えたい」という思いが強くあったからです。
その日の授業で伝えたことは、以下の通りです。
(以下、教師の説話)
『多分、何度も言っていますが、みんなはすごくすごく、すごく愛されているんだよ。昨日、おうちの人 に「私のこと、好き?」と質問したという感想もありました。「大好きだ」と言ってもらえたようです。すごく愛されているけれど、それに気づかないことがあったりします。腹を立てて喧嘩をしてしまうこともあると思うけれど、このお話の通り、命のつながりということを少し考えてもらえたら嬉しいな。日常は素通りしてしまっているかもしれない「つながり」を、考えてみてください。』
(以上)
「あなたは愛されている」、教師として、一人の大人として、そのことを伝えたいと思っていました。愛されている実感が、命をつながりを感じさせます。授業のねらい意識し、教師の思いをそのまま伝える説話となりました。
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