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2026/01/22

道徳教育と人権教育(2) ~重点指導教材と人権課題~


 道徳科授業における人権教育について、今回は教材の視点から考えていきます。

 畿央大学の島恒生氏は人権教育の重点指導教材について以下のように述べています。

(引用参考文献より一部抜粋) 

 道徳科の授業での人権教育の重点指導教材には、人権問題を直接取り上げた教材と人権問題は直接取り上げていない教材の両方が考えられる。共に重要なのは、人権教育として大切にしたい道徳的価値について考え、議論できることである。そのためには、人権教育と道徳教育の全体計画や年間指導計画に関連性が必須である。

 さて、上記文中に「人権問題を直接取り上げた教材」とありますが、人権問題とはどのようなものを指すのでしょうか。法務省によると、主な人権課題として18の課題を強調事項としてあげています。この中には道徳科の教科書に取り上げられている課題もあります。

 これらの課題の解消に向けた教育に取り組むために、「知識的側面」「価値的・態度的側面」「技能的側面」という3つの側面から資質・能力を養うこと、このことが人権教育の大きな目的であると言えます。

 また、人権問題を直接取り上げている教材、直接取り上げていない教材、どちらの授業においても、「道徳的価値について考え、議論できること」が重要であると言えます。

 例えば、人権問題を直接扱った教材で授業をする際、「差別や偏見はいけない」「思いやりの心が大切」など、答えが分かっている授業になりがちな傾向があります。だからこそ、道徳的価値について議論できるような発問や手だてが重要になってくるのです。

(引用参考文献)

『小学道徳 生きる力 道徳教育と人権教育』(2023,日本文教出版)


2025/09/05

子供たちによる教材づくり(2)


  小学校6年生の子供たちと「道徳科の教材づくり」という活動を行ってみました。子供たちは、それぞれの日常の中でのうれしかったことやで困ったことなどを思い出しながら、みんなで話し合ってみたいことを書き綴っていました(内容項目の指導や紹介などはしていません)。

 那須正裕は、著書の中で以下のように述べています。

(以下、参考引用文献より一部抜粋)

 子どもたちは毎日の授業を通して、各教科等に特徴的な授業の基本的な流れを帰納的に学び取っています。これを心理学でスクリプトと言います。

(以上)

 この教材づくりという活動においても、子供たちは道徳科の教材の基本的な流れをこれまでの経験から学び取っていることを感じることができます。 


(引用参考文献)

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2025/09/03

子供たちによる教材づくり(1)


 那須正裕は、著書の中で以下のように述べています。

(以下、参考引用文献より一部抜粋)

 子どもたちは毎日の授業を通して、各教科等に特徴的な授業の基本的な流れを帰納的に学び取っています。これを心理学でスクリプトと言います。

(以上)

 子供たちは、毎週の道徳科授業を通して、様々な教材と出会っています。多くの教材との出会いを通して、教材の特性を帰納的に学んでいるといえます。そうであれば、子供たち自身が教材を作成することも可能なのではないでしょうか。 

 そこで、実際に小学校6年生の児童と教材づくりに取り組んでみたところ、このような教材が生まれました。

 同じ「幸せになる」という言葉ですが、小学校6年生の考える「幸せ」と、大人の思い描く「幸せ」とでは、見ているものが異なるのでしょう。このように、教材づくりを通して、子供たちの内面を教師は知ることもできるのです。このような教材を授業で実際に扱うこともできますし、朝の会などでの「小さな対話」の教材にすることもできます。教材づくり、ぜひ取り組んでみてはいかがでしょうか。


(引用参考文献)

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2024/11/17

4年生「ヒキガエルとロバ」~「気落ち悪い」という意識~


 4年生教材「ヒキガエルとロバ」の授業について考えます。

 本教材の授業を参観すると、ヒキガエルの写真を見せて、子供たちから「気持ち悪い」という発言を引き出そうとする導入を見かけることがあります。

 この導入に意図やねらいがあると思いますが、教師が「ヒキガエルは気持ち悪い」という決めつけのもと、このような導入をする必要はあるのか疑問をもちます。ヒキガエルの体の色が私たちの体の色と異なるからでしょうか。体にブツブツのようなものがあるからでしょうか。

 ヒキガエルを人として捉えたとき、肌の色が異なっていても、病気等で体に発疹や腫瘤などがあったとしても、それを「気持ち悪い」と捉えさせようとすることはあり得ません。確かに、教材の中に「気持ち悪い!」という記述があります。ただ、教師側から「ヒキガエルは気持ち悪い」という決めつけをさせる必要はあるのかを考えたいところです。

2024/10/30

3年生「同じなかまだから」~教材文への配慮~


 日本文教出版社3年生「同じなかまだから」(内容項目:公正、公平、社会正義)について考えます。

 本教材は、「運動会で勝ちたい」という気持ちから、運動が苦手な光夫を見学させようとするお話です。

 教材文で、光夫の紹介が「光夫は、何をするにもおそいのですが、運動はとくべつ苦手なのです」と書かれています。この文を読むだけで、なんだか悲しい気持ちになります。教室の中にいる運動が苦手な子供たちは、この文をどのような気持ちで読んでいるのでしょうか。まるで、運動が苦手な子は立場的に弱い存在なのだと、暗に教え込んでいる教材に思えてしまいます。

 「何をするにもおそい」という文言についても、だれが何を基準にして「遅い」と判断しているのでしょうか。「レッテルを貼る」ことを認めているような書き方に、違和感を感じてしまいます。

 授業をする際は、上記のような感覚を抱く子供たちがいることを想定し、学級の誰かが嫌な思いをしないよう配慮する必要がある教材だと考えます。

2023/10/17

教師が発する「例えば・・・」


 道徳科授業の途中で子供たち自身の生活経験を出させても、それぞれの生活背景が異なるので、議論になりづらいのが実情です。また、授業で考えさせたい道徳的価値は抽象的なので、そのまま道徳的価値について話し合わせても子供たちの思考はバラバラになってしまいます。

 だから、道徳科授業には「教材」があるのです。教材を使って共通の土俵を作る必要があるということです。そうしなければ、授業についてこれない子が置いていかれてしまいます。

 また、授業の途中に「例えば、〜。」という実生活での事案等を授業者が出してしまうと、それぞれの思考がバラバラに向かってしまいます。子供たちから自然と「例えば」と発言があればよいのですが、時に、「そういえば、先生はこの前に〜」と話し出す教師がいます。それは、二つ目の教材を提示していることになり、子供たちに混乱を生む要因になってしまいます。

2023/06/21

子どもの興味に関する研究


 心理学者のモロゾーヴァは、学童の「興味」について多数の研究を行い、「興味」が生まれる諸条件を結論づけています。

(1)読まれるものは、読み手が答えにくいと思うような疑問を生じるものでなけれなばらない。

(2)疑問にぶつかる主人公がいる。

(3)主人公は答えのために積極的な探求を行っている。

(4)困難や困惑に対する「奮闘」という、中心的要素が存在する。

 これらの諸条件によって、読み手(子供たち)の思考に「認知的葛藤」がつくられます。また、読み手は主人公との同一視の可能性があることによって、代理性の葛藤の経験もできます。

 このことから、モロゾーヴァは、「困難を克服し、葛藤を解決しようとする主人公の努力が成功することは、課題のもつ特殊な疑問に対する答えを知りたいという読み手の欲求を満足させるだけでなく、同じ話題について、一層知識を得たいという熱意をも刺激するようである」とまとめています。

 この「興味」を生み出す諸条件と、その諸条件から生まれる「認知的葛藤」と「代理性の葛藤の経験」こそ、道徳科授業で大事にすべきものではないでしょうか。


《参考引用文献》

橋本七重・小杉洋子『バーライン 思考の構造と方向』(1970,明治図書)

2023/05/07

小学校1年生『二わのことり』を分析する


 小学校1年生の定番教材「二わのことり」の教材分析です。今回注目したいところは、教材の設定(葛藤)の一つが「やまがらの誕生日会」と「うぐいすの家で音楽会の練習」という選択になっているところです。

 まず、最近の子供たちも家庭に友達を呼んで「誕生日会」を開催しているのだろうかという小さな疑問が思い浮かびました。特にコロナ禍を過ごしてきた1年生の子供たちにとって、友達の家に行って誕生日をお祝いする(される)という喜びをどれぐらい想像できるのかを想像してみたいところです。

 また、誰も誕生日会に来てくれなかったという悲しみを、どれだけ自分のこととして捉えられるでしょうか。実際に、幼少の頃の誕生日会に誰も来てもらえなかったという経験のある教師は少ないでしょう。母親が作ってくれた大好きな唐揚げや卵焼きがたくさん乗ったテーブルを見ながら友達が来ることを待つ楽しみ。しかし、その楽しみに少しずつ不安が混じり、やがて悲しみや孤独に変わっていく過程を、どこまで想像できるものでしょうか。

 授業を参観した際に「誕生日はまた来年もあるから、音楽会の練習に行きます」という発言を聞いたこともあります。中には、誕生日をお祝いしてもらえない家庭環境の子もいるかもしれません。そう考えると、「誕生日」というものについて、導入や展開前段できちんと共通理解しておくことが大事だと考えさせられます。

 また、「音楽会の練習」についても同様です。音楽の練習を楽しいと思う子もいれば、あまり好きではない子もいます。ここでは、「みんなが行くから」という付加条件も加わります。そうであれば、「なぜみそさざいはうぐいすの家に行ったのか」という発問をした際に、様々な条件が混じってしまいそうです。

 話が長くなってしまいましたが、大事にしたいことは「教材の設定を疑ってみる」ということです。教師が「?」を抱いたところは、きっと子供たちにとっても「?」な所になるのです。その「?」に正面から向き合ってみることで、教材分析の新たな視点が見つかるものです。

 また、「前提を揃える」ということも大事になってきます。「誕生日」という一つの言葉を扱ってみても、子供たち一人ひとりがもつ意味は異なります。もちろん、道徳科では一人ひとりの「道徳的価値についての理解の違い」は大変重要ですが、その理解のための前提が異なっていると、話し合いの論点が曖昧になってしまいます。本教材であれば、「やまがらさんにとっての誕生日会」という前提(設定)を学級で揃えておいてもよいのではないでしょうか。