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2026/07/09

道徳科授業スタイルの4分類 物語り(ナラティブ)スタイル


 道徳科授業のスタイルを4つに分類してみると、下記のように分類できます。今回は「物語り(ナラティブ)スタイル」について考えてみます。

 自分の言葉で過去を語ること、これを「物語る」と呼びます。心理学では「ナラティブする」という行為になります。心理学者の森岡正芳氏が著書『ナラティブと心理療法」の中で、「人は自分で自分を作り直せる。それは、物語るという行為を通して叶えられる」と述べているように、自分を物語ることで、過去と現在をつなぐことができるようになるのです。言い換えると、過去の「出来事」は変えられなくても、「出来事の意味」は変えられるということになります。


 これは、小学校6年生「その思いを受け継いで」の授業をした際の児童の感想(ふり返り)です。

 私は、まだ、もの心つかないうちにおじいちゃんが死んでしまいました。でも、物心ついていない時でも、いっしょに遊んでくれた日のことや、場所や、入院していベットで寝ている時の表情、おじいちゃんが死んだ時、夜中に病院に駆けつけたときのこと、病室の様子、お葬式の時、焼く時、納骨する時のことを今でもはっきりと覚えています。

(中略)

 今の話し合いで、おじいちゃんのことを思い出して泣いてしまいました。今までおじいちゃんのことで泣いたことはあるけれど、こんなに深く考えて泣いたことはなかったので、今日、改めて命のつながりを感じることができました。

 この児童は、過去の出来事を「物語る」ことで、自らがかぶせていた「心の蓋」を外すことができました。そして、今の自分が、過去の悲しい出来事に「命のつながりの温かさ」という価値をもたらすことができたのではないかと考えられます。この瞬間、この児童の心は未来へ向いたはずです。 

 この授業スタイルのイメージは、自然教室最終日のキャンプファイヤーです。みんなで友情の炎を眺めながら、涙を流す。これと同じように、みんなで同じ教材を囲み、ともに考え合い、過去を物語り、受け入れられ、涙を流す。このような授業が年に一回でも叶えられると、子供たちの道徳科授業に対する印象が大きく変わるのではないかと思っています。


〈参考〉『ナラティブと心理療法』森岡正芳 2008 金剛出版

2026/06/12

道徳科授業スタイルの4分類を提案する


 道徳科授業のスタイルを4つに分類してみます。

(1)心情理解(共感)スタイル

 従来の道徳科授業のスタイルと捉えられます。中心人物の心情を想像(共感)することを重視し、授業の流れは「場面発問→中心発問→補助発問」と進んでいくことが多いと言えます。授業スタイルとしては定番ですが、「教材の中で学ぶ」という印象があり、近年では「読み取り道徳」と批判的に捉えられてしまうこともあります。

 なお、この授業スタイルでは「中心人物になりきって考える」という学習活動を大事にしますが、この「なりきって考える」という学習活動そのものにも大きな意義があることを付け加えておきます。


(2)価値議論(思考)型

 道徳的諸価値そのものについて議論するスタイルになります。教材の中に込められた諸価値の本質について、例えば、「◯◯の行動は親切と言えるのでしょうか」や「どちらの自由に賛成ですか」等の発問をすることで、発達段階に応じた道徳的諸価値について考えさせます。


(3)ワークショップ(グループワーク)型

 近年の教材では、中心人物が登場せず、様々な場面が掲載されているようなものがあります。日本文教出版社の教科書を例とすると、高学年教材の「これって不公平?」や「わたしのせいじゃない」などです。従来の道徳科授業のスタイルではなかなか深めづらい教材かもしれませんが、それ故に自由度があり、様々な工夫も考えられます。


(4)自己の物語り(ナラティブ)型

 教材を通して自分自身の内面を見つめ、これまでの経験や秘めていた思いを語り合うスタイルです。こちらも日本文教出版社の高学年教材を例にすると、「かぜのでんわ」や「その思いを受けついで」など、「生命」を扱うような教材が向いていると言えます(もちろん、それ以外でも可能です)。自己を見つめることを大事とする道徳科だからこそ生み出すことができる授業だと言えそうです。


2021/08/23

自分を物語る授業(6)〜その思いを受けついで〜

自分を物語る授業(6)〜その思いを受けついで〜


【教師の受容的態度】

 C児の「ちょっと長くなりますが・・・」という前置きから始まった「物語り」。発言することに遠慮しているC児に対して、授業者として優しく微笑みかけるように「どうぞ」とだけ伝えました(これは授業者の意識ですので、実際に子ども達がどのように感じたかは分かりません)。「あなたの思いを伝えてもいいよ。静かに聞いてくれる友達がここにいるよ。先生も、あなたの話が聞きたいな」というメッセージを、「どうぞ」という短い言葉に込めました。

 C児はこのように発言しました。

(一部抜粋)

 私はこのお話を読んで泣きそうになりました。私も入院した時があって、その時たまたまおじいちゃんも入院していて、ずーっと私と遊んでくれていました。そんなおじいちゃんも3年前に亡くなりました。だから、この話に出てくる僕の気持ちがすごくわかります。ノートに書けないぐらい悲しいです。この1〜2行を読むと、目から涙が出てきました。おじいちゃんから僕への愛が伝わってきました。

(以上)

 この発言の後、C児の目からは涙がこぼれていました。続けて数名が自分の感想を発表していきます。その時、D児が「Cさんと少し似ているのですが、・・・」と語り始めました。


【〇〇と似ていますが】

 今回は、この「少し似ているのですが」という言葉に注目してみます。

 例えば、「答えは◯です」「いいでーす」という場面を見かけます。私はこの姿を常に残念だと感じています。子ども達の思考が感じられず、条件反射的な発言になっているからです。

 しかし、このD児の「Cさんと少し似ているのですが」という言葉には、D児の葛藤や共感が込められた言葉であったと思われます。

 自分を経験を物語ることに不安を感じることは当たり前のことです。自分が話すことに興味をもってもらえるかな。批判されないかな。そのような葛藤を抱きながら、でも「伝えたい」という思いが溢れ出し、物語りが始まります。ですから、伝え終わったあとも、心の中にモヤモヤが残る場合があります。

 その瞬間、「〇〇さんと似ているのですが・・・」という発言が聞こえてきたらどうでしょうか。その言葉で、「私の話を聞いてくれていたんだ!」「同じように考えている人がいたんだ!」と感じることができます。自分を受け入れてもらえた喜びを感じることができるのです。

 D児の「Cさんと少し似ているのですが」という言葉は、きっとC児の心を救ったことでしょう。日常の教室にあふれている言葉かもしれませんが、そこに受容的な態度が自然と込められている。そのような環境でこそ、「自分を物語る」という行為が成立するのです。


【感じ方の交流】

 さて、ここまで「自分を物語る」道徳授業について述べてきました。この「物語る」という行為について、どの学年のどの授業でも成立するのかと尋ねられたら、それは難しいかもしれません。しかし、「生命」や「自然」を扱う授業においては、大きな効果を発揮するものだと実感しています。

 このことについて、藤川大祐氏も、著書「道徳授業の迷宮〜ゲーミフィケーションで脱出せよ〜」(学事出版)の中でこのように述べています。

(以下、抜粋)

「主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること」については、突き詰めると個人の信念や信仰に関わることを踏まえ、無理に議論させるのではなく、児童生徒が互いの感じ方を交流する授業を検討する。」

(以上)

「互いの感じ方を交流する」ということが、「自分の物語りを伝え合う」ということと合致します。もちろん、感じ方は一つではありませんので、否定的な「物語り」も生まれるかもしれません。しかし、否定的な「物語り」も、その子を作り上げている大切な過去ですので、教師は受け止めてあげてください。そこに、道徳科授業の大きな意義が生じるからです。


【教師の説話】

 学習資料要領解説の「道徳科に生かす指導方法の工夫 」の中で、教師の説話に関して以下のように記載されています。

(以下、学習指導要領抜粋)

教師が自らを語ることによって児童との信頼関係が増すとともに,教師の人間性が表れる説話は,児童の心情に訴え,深い感銘を与えることができる。 

(以上)

 教師の説話に関して、そのものを実施しない授業もあります。なぜかというと、説話そのものに「価値理解の誘導」を感じる子どもが教室にいるからです。

 しかし、ここまで紹介してきた「その思いを受けついで」の授業では、教師の説話の時間をきちんと確保しました。それは、子ども達の「伝えたい」と同様に、教師にも「伝えたい」という思いが強くあったからです。

 その日の授業で伝えたことは、以下の通りです。

(以下、教師の説話)

『多分、何度も言っていますが、みんなはすごくすごく、すごく愛されているんだよ。昨日、おうちの人 に「私のこと、好き?」と質問したという感想もありました。「大好きだ」と言ってもらえたようです。すごく愛されているけれど、それに気づかないことがあったりします。腹を立てて喧嘩をしてしまうこともあると思うけれど、このお話の通り、命のつながりということを少し考えてもらえたら嬉しいな。日常は素通りしてしまっているかもしれない「つながり」を、考えてみてください。』

(以上)

 「あなたは愛されている」、教師として、一人の大人として、そのことを伝えたいと思っていました。愛されている実感が、命をつながりを感じさせます。授業のねらい意識し、教師の思いをそのまま伝える説話となりました。

2021/08/22

自分を物語る授業(5)〜その思いを受けついで〜

自分を物語る授業(5)〜その思いを受けついで〜


【何をふり返るか】

 授業の終末に「ふり返り」の時間をとります。その際、子ども達は何をふり返るべきなのでしょうか。授業のねらいによって様々な「ふり返り」が存在すると思いますが、今回は「自分を物語る」と「ふり返り」の関係について考えてみます。


【自己を見つめる】

 「自己を物語る」ためには、まずは自己の経験や考え方を見つめるという行為が必要だと考えられます。学習指導要領解説に、「自己を見つめる」ことについて以下のように記載されています。

(以下、抜粋)

自己を見つめるとは,自分との関わり,つまりこれまでの自分の経験やそのときの考え方,感じ方と照らし合わせながら,更に考えを深めることである。このような学習を通して,児童一人一人は,道徳的価値の理解と同時に自己理解を深めることになる。また,児童自ら道徳性を養う中で,自らを振り返って成長を実感したり,これからの課題や目標を見付けたりすることができるようになる。 

(以上)

 この「自己を見つめる」の記載を、内容ごとに分けて考えてみます。すると、自己を見つめるとは、この4つを統合させたものであると考えられます。

(1)これまでの自分の経験や考え方、感じ方と照らし合わせる

(2)道徳的価値の理解と同時に自己理解を深める

(3)自らを振り返って成長を実感する

(4)これからの課題や目標を見付けたりする


【自己を見つめるふり返り】

 6年生「その思いを受けついで」のB児の感想(一部抜粋)を紹介します。

(以下、一部抜粋)

「まだぼくが小さい時に亡くなったひいおばあちゃんからもらった人形があって、その人形はぼくの名前と姉の名前が書いてあるものがありました。ぼくと姉が受け取った時、一人の看護師の人が「おばあちゃんが何度も手に針が刺さりそうになりながら作ったのよ」と言っていたのを今でも覚えています。ぼくは、「なんでそこまでして作るの」と思っていましたが、今は、なぜそこまでして作ったのかがわかるような気がします。姉はそれをもらってニコッと笑いました。ぼくは、悲しいのに姉がニコッと笑った意味がわからなかなったけれど、今はやっとわかったような気がします。」

(以上)

 B児は、きっとこの思い出を記憶の奥にしまっていたのでしょう。誰にも話すことはなく、自分の心の中にしまっていました。しかし、授業の中でその記憶が鮮明に浮かび上がってきました。過去と現在がつながりました。その記憶の中の出来事を今の自分が見つめることで、過去の出来事に新しい意味を持たせていったのです。


 さて、この感想を先ほどの4つの観点をもとに整理してみます。

(1)【これまでの自分の経験や考え方、感じ方と照らし合わせる】

→まだぼくが小さい時に亡くなったひいおばあちゃんからもらった人形があって、看護師の人が「おばあちゃんが何度も手に針が刺さりそうになりながら作ったのよ」と言っていたのを今でも覚えています。

(2)【道徳的価値の理解と同時に自己理解を深める】

→ぼくは、「なんでそこまでして作るの」と思っていましたが、今は、なぜそこまでして作ったのかがわかるような気がします。

(3)【自らを振り返って成長を実感する】

→ぼくは、悲しいのに姉がニコッと笑った意味がわからなかなったけれど、今はやっとわかったような気がします。


 このように、B児の感想は、まさに道徳科授業が大切にする「自己を見つめる」というふり返りとなっていました。なお、(4)の「これからの課題や目標を見付けたりする」ということについては感想の中に記述はありませんでしたが、B児の心の中には授業の中で感じた「命のつながりの温かさ」と、これから大切にしていきたい目標のようなものが確かに存在していたのではないかと感じています。


 また、B児は授業中にこのような発言をしています。

「最後の文に「おじいちゃんの温かな、そして強い思いが僕の胸に押し寄せた」とあるのですが、今、この気持ちが分かるようで・・・。僕はまだ小さい時だったのですが、ひいおばあちゃんがたまにバスでこっちに来てくれた時に遊んでいて、最後にお人形をもらったのですが、その時にこの大地くんのような気持ちになりました。だから、すごく共感できました。」

 この「授業中の発言」と「ふり返りの感想」を比べてみても、B児の学びの深まりを感じられます。授業中の発言では、中心人物の心情を自分ごととして共感し、自らの心情を整理している状況にあります。教材という眼鏡を使って自己を見ようとしている状態です。それが、ふり返りの感想では、自分の内面に目を向け、過去の出来事の意味や今の自分が新たに気づいたことを整理している状況にあります。まさに、道徳性を養うという過程にあるのです。

 このように、道徳科の授業での「ふり返り」は「自己を見つめる」という活動と同様の意義があり、「自分を物語る」ことは「ふり返り」にも大変効果的であるといえるのではないでしょうか。

2021/08/21

自分を物語る授業(4)〜その思いを受けついで〜

自分を物語る道徳授業(4)〜6年生「その思いを受けついで」〜


【過去の感情への価値づけ】

 6年生「その思いを受けついで」(日文)の授業の様子を紹介しています。「ちょっと長くなるのですが・・・」という発言の後、子ども達は教材と自分とのつながりに目を向け始めました(この「つながりに目を向ける」が道徳性を育む要因であることは前述しています)。教材を通して自分の経験(過去)を想起し、その時の感情を伝え始めたのでした。過去の感情を自覚させ、その感情の意義を自ら価値づけすること、これがまさに道徳科の授業が目指す営みなのかもしれません。


【自分を物語る】

 授業の中盤、Aさんからこのような発言がありました。 

​「私も、まだ物心がついていない時に、ずっとおじいちゃんに遊んでもらっていたのですが、おじいちゃんが亡 くなっても遊んでもらっていた時のことをずっと覚えているので、この話を読んで共感できました。」

 ここまで発言した後、Aさんの目から涙がこぼれました。教材の「ぼく」に感情移入して流れた涙ではありません。教材を通して自己をふり返ることでこぼれた涙でした。

 授業後のふり返りで、Aさんはこのようにノートに書きました(一部抜粋)。

「私は、まだ物心つかないうちにおじいちゃんが亡くなりました。でも、物心ついていない時でも、いっしょに遊んでくれた日のことや場所、入院してベットで寝ている時の表情、おじいちゃんが死んだ時に夜中に駆けつけたこと、病室の様子、お葬式のときのことを今でもはっきりと覚えています。昔、この話を友達にした時に笑われたのがとてもショックでした。病気に冒されていてもずっと遊んでくれていたおじいちゃんのことは今でもずっと大好きです。今の話し合いで、おじいちゃんのことを思い出して泣いてしまいました。今までおじいちゃんのことで泣いたことはあるけれど、こんなに深く考えて泣いたことはなかったので、今日、改めて命のつながりを感じることができました。」

 きっと、Aさんはおじいちゃんとの話を記憶の底に隠していたのでしょう。一度友達に話をした時に笑われてしまったことがきっかけで、重い蓋をかぶせてしまいました。しかし、この授業で、自らその「心の蓋」を外しました。そして、その思い出を物語ることで、今の自分が過去の悲しい出来事に「命のつながりの温かさ」という価値をもたらしました。この瞬間、Aさんの心は未来へ向いたはずです。

 このような一連の流れが「よりよい道徳性を育む」という教育活動になるのではないかと私は思っています。 ​​​​


【思考の公開性】

 この授業での教師の発問はほぼありませんでした。子ども達の『物語り』が次々と出てきたからです。大切にしたことは、子ども達の『物語り』を受容するということ。そして、それに対しての思いを丁寧に伝えることでした。教師の思考を公開し、思いをきちんと伝えようとしました。これも、子ども一人ひとりを大切にした対話の型の一つであると思います。

2021/08/20

自分を物語る道徳授業(3)〜6年生「その思いを受けついで」〜

自分を物語る授業(3)〜その思いを受けついで〜

【感動を生む】

 映画や小説を読んでいて涙がこぼれる時があります。多彩な情景描写や思いがけない展開が登場人物への感情移入を生み、その喜びを祝福したり悲しみに共感したりすることで、思いがけずに涙が止まらなくなります。(最近では「ライオンのおやつ」という小説で私は涙が止まらなくなりました。おすすめです!)

 さて、この「涙が止まらなくなる」という現象を「感動」と呼ぶことにします。この「感動」の瞬間を、道徳科授業の中で起こすことはできないのでしょうか。このことについて、本日は授業実践を通して述べたいと思います。


【6年生 その思いを受けついで】

 6年生に「その思いを受けついで」(日文)という教材があります。内容項目は「D生命の尊さ」です。

(以下、あらすじ)

大好きなおじいちゃんが入院してしまい、ぼくは毎日お見舞いにいきます。そのおじいちゃんが亡くなった際、枕元からしわくちゃののし袋が見つかります。そこには、ふるえて力のないじいちゃんの字で、「お誕生日おめでとう。これからもずっと見守っているよ」と書かれていました。ぼくの誕生日は一ヶ月も先でした。そののしぶくろから、じいちゃんの温かな、そして強い思いが胸いっぱいに押し寄せてきました。

(以上)

 

【授業の様子】

 実際の授業では、導入の時間をなくしました。授業開始とともに範読を始めました。導入で授業の方向性を示さなくても、この教材のメッセージは確実に子ども達に届くと感じたからです。この教材の世界観を軽いものにしたくないと思ったのです。

 ただし、教材からのメッセージをより深く自分ごととして感じられるように、授業前(前日)に布石をうちました。絵本「ひまわりのおか」を読み聞かせしたことです。

 この絵本には、震災で愛する我が子を失った母親達の思いが綴られています。読み聞かせ後、「みんなも、とっても愛されているのですよ」という思いを担任の口から伝えました。「ぼくのこと、愛してる?」と、帰ってから尋ねてみてほしいということも伝えました。「私は愛されている」という実感をもって授業に臨んでもらいたかったためです。

 さて、範読後はペアトーク。短い時間(実際の授業では2分間)ですが、まずは「伝えたい」という気持ちを自由に表出させました。また、記憶の中に「心の蓋」が置かれている子にとっては、その蓋に気づくための時間としました。

 ペアトークを終え、発言を促しました。一人目の子は、

『おじいちゃんが大地のために用意したのし袋は、いつも見舞いに来てくれていた大地に「ありがとう」という感謝を伝えるためと、おじいちゃんが大地にしていたように、「これからも家族を大切にしてね」という気持ちが込められていると思いました。』 

と発言しました。これは、いわゆる「本時のねらい」に近づく発言でした。子ども達は、教材を読むだけで教材の意図(メッセージ)を確かに受け取っていたのです。

 45分間かけてこの発言を引き出すために、導入・基本発問・中心発問という流れの授業を構想することは可能です。しかし、本授業ではこの発言を「自己のふり返り」のきっかけとしました。ここから、『物語り』を引き出そうと考えたのです。

 この発言に対して、誰からも異論はありませんでした。すると、二人目の子が口を開きました。一言目が​『ちょっと長くなりますが・・・』というものでした。

 この言葉には、

 ◯ちょっと長くなるけれど、聞いてほしいです。

 ◯問われてはいないけれど、今伝えたいことがあります。話をしてもいいですか。

 ◯話そうかどうか悩んだけれど、どうしても伝えたいという気持ちが溢れてきます。

という思いが込められていたのだと思います。私は「どうぞ」と伝え、ここから『自分語り』が始まりまりました。