小学校1年生の定番教材「二わのことり」の教材分析です。今回注目したいところは、教材の設定(葛藤)の一つが「やまがらの誕生日会」と「うぐいすの家で音楽会の練習」という選択になっているところです。
まず、最近の子供たちも家庭に友達を呼んで「誕生日会」を開催しているのだろうかという小さな疑問が思い浮かびました。特にコロナ禍を過ごしてきた1年生の子供たちにとって、友達の家に行って誕生日をお祝いする(される)という喜びをどれぐらい想像できるのかを想像してみたいところです。
また、誰も誕生日会に来てくれなかったという悲しみを、どれだけ自分のこととして捉えられるでしょうか。実際に、幼少の頃の誕生日会に誰も来てもらえなかったという経験のある教師は少ないでしょう。母親が作ってくれた大好きな唐揚げや卵焼きがたくさん乗ったテーブルを見ながら友達が来ることを待つ楽しみ。しかし、その楽しみに少しずつ不安が混じり、やがて悲しみや孤独に変わっていく過程を、どこまで想像できるものでしょうか。
授業を参観した際に「誕生日はまた来年もあるから、音楽会の練習に行きます」という発言を聞いたこともあります。中には、誕生日をお祝いしてもらえない家庭環境の子もいるかもしれません。そう考えると、「誕生日」というものについて、導入や展開前段できちんと共通理解しておくことが大事だと考えさせられます。
また、「音楽会の練習」についても同様です。音楽の練習を楽しいと思う子もいれば、あまり好きではない子もいます。ここでは、「みんなが行くから」という付加条件も加わります。そうであれば、「なぜみそさざいはうぐいすの家に行ったのか」という発問をした際に、様々な条件が混じってしまいそうです。
話が長くなってしまいましたが、大事にしたいことは「教材の設定を疑ってみる」ということです。教師が「?」を抱いたところは、きっと子供たちにとっても「?」な所になるのです。その「?」に正面から向き合ってみることで、教材分析の新たな視点が見つかるものです。
また、「前提を揃える」ということも大事になってきます。「誕生日」という一つの言葉を扱ってみても、子供たち一人ひとりがもつ意味は異なります。もちろん、道徳科では一人ひとりの「道徳的価値についての理解の違い」は大変重要ですが、その理解のための前提が異なっていると、話し合いの論点が曖昧になってしまいます。本教材であれば、「やまがらさんにとっての誕生日会」という前提(設定)を学級で揃えておいてもよいのではないでしょうか。
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