『自分を物語る道徳授業』(2)
(1)深い学びにつながる「物語り(ナラティブ)」
道徳科授業での「物語る」という行為について話を広げていきます。例えば、「物語る」ということが「自己をふり返る」という学習活動の一つになり、深い学びへと子ども達を誘うものでもあります。これは、声に出して語る場合もありますし、文章として書き綴ることもあります。しかし、「あなたならどうしますか?」「あなたはできていますか?」と無理やりに自分のことを語らせるということではありません。このことをご理解の上、この後の私論にお付き合いください。
(2)沈黙の価値
さて、子ども達が自分のことを語りだした際に、ふと言葉につまる瞬間があります。鉛筆が止まる場合があります。なかなか次の言葉が出てこず「沈黙」が生まれます。この「沈黙」にこそ大きな価値があるのです。
「語りたい」という強い思いが言葉が紡いでいきますが、その時の「語る」という行為は決して流暢なものではありません。子ども達は、心の奥にある過去の事実をを引き出し、その事実に紐付いた感情を思い起こしていきます。
その感情は、過去の時点では「悲しい」「恥ずかしい」というものだったかもしれません。しかし、語りながら、物語る過去に違和感が生じます。物語る際の「沈黙」は、この「違和感」に目を向けたときに起こるものです。今の自分が過去の自分の心の声を聞き、他者に語りかけることを通して自分の過去にも語りかけ、新しい意味づけをしているのです。そうすることで、未来につなげようとしているのです。
発問の意図が伝わらずに生まれるような沈黙とは異なります。このことについて、諸富祥彦氏は「ダイレクトリファー」という言葉で説明をしています。「ダイレクトリファー」とは、自分が語る内容に対しての「漠然とした違和感」に直接意識を向けることをいいます。諸富氏は、「物語るなかで気づいた違和感に触れ、そこから言葉を紡ぎ始める時、物事にわずかな転換がもたらされる。それが重なり、大きな変容につながる。」と述べています。
(3)「学習をふり返る」の重み
このことを、道徳科の授業に生かしたいのです。日常的に使用されている「自己をふり返る」という言葉の重みを、一度考えてみたいのです(終末の「ふり返り」という活動の学習意義は改めて述べます)。道徳科の学習は、一人ひとりの生活につながり、現実社会につながるものです。その学習の中で、特に「自己をふり返る」という活動の中で、自分のことを物語るということが成り立つとすれば、その道徳科授業は子ども達の生活(価値観)や社会に対しての見方を大きく変容させるものになる可能性があります。みんなの前で自己を物語る子もいれば、心の中で物語る子もいます。形態は様々ですが、「物語る」という行為の意義を教師が理解し、「物語る」という行為が自然と発生するための発問や展開、学級風土を整えていきたいものです。
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