本日も河野哲也氏の『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』を参考に道徳科授業について考えていきます。
ピアジュは、「子どもの発達は脱中心化にある」としています。このことについて、メルロ=ポンティは「ピアジュによる発達の定義そのものは間違っていないが、真の問題は、脱中心化がどのように獲得されてゆくかである」と論じています。
道徳科授業での学びを深めるために、ビアジュのいう「脱中心化」という概念がヒントになるのではないでしょうか。では、子どもの発達を促す「脱中心化」は、どのようにすれば生まれるのでしょうか。
(以外、著者より抜粋)
脱中心化を達成するには、他の視点への「再中心化」を幾度も経なければならない。他者の立場に身を置くこと、すなわち自己と他者の同一視は、脱中心化にとって不可欠のステップである。それは、理性にとって共感が不可欠の基盤であることを意味する。
(以上)
道徳科授業では、登場人物の心情を自分ごとと捉えて考えさせることが多いです。まさに「他者の立場に身を置く」ということになります。
脱中心化は他者との関係のなかで育まれるものとされていますが、子ども達が日々接することのできる他者は限られています。だからこそ、道徳科授業に大きな意義があるのではないかと私は思いました。教材の中の多様な他者の立場に身を置くことが脱中心化を促すきっかけになるのではないかと考えたからです。
おそらく、単に登場人物の立場に身を置くだけではあまり意味をもたないかもしれません。そこに、他者(級友)の異なる価値観を知ることにより、新たな見方・考え方を獲得することができます。そのことこそが、ビアジュのいう「脱中心化」の過程になるのではないでしょうか。
これまでに何気なく発していた発問や学者展開も、哲学の分野とつなげて考えてみると新たな意味が見えてきます。我々には新たな意味かもしれませんが、実は過去からつながる叡智に気づくことができるということかもしれません。
《参考引用文献》
河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(ちくま書房,2011)
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