本日も河野哲也氏の『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』を参考に道徳科授業について考えていきます。
河野氏は著書のなかで「共感」について以下のように論じています。
(以下、抜粋)
道徳性は、ただの認識としてではなく、行動に表れなければならない。よって、行動を動機づけるものでなければ道徳性の基盤たりえない。感情は行動に密接に結びつくゆえに、道徳性の基盤としてふさわしいのである。
たとえばスミスによれば、人間は想像によって他人の立場に身を置くことができ、そこから共感が生まれる(『道徳感情論』岩波文庫、2003年)。共感とは、想像上の立場の交換であり、立場を交換して自分の情念と他者の情念が一致したときには、他者の情念が適正であると感じて是認する。適正と感じない場合には否認する。この是認と否認が道徳感情であり、すなわち道徳判断なのである。
ただし、スミスはここで、道徳的判断のためには「公平な観察者」、すなわち、利害に関係のない第三者としてある人に共感されなければならないと主張する。また、共感という内なる裁判官はしばしば堕落し、自己中心的になる。そこで、個々の行為に対する是認否認の経験を抽象して一定の規則が作られ、それが道徳観の基準となっていく。
(以上)
河野氏は、スミスの論をもとに「共感」の過程について述べています。そして、共感は道徳的判断であるということにも言及しています。
さて、この論における「共感」の過程を時系列に整理してみます。
この過程は、まさに道徳科授業の基本展開に即しているものだと私は感じました。「心情に共感する→対話→納得解→生き方を考える」という学習展開そのものであると思いました。
このように、私たちが日々取り組んでいる道徳科授業は、哲学の考え方に大きな影響を受けているということを知っておく必要があるでしょう。
《参考引用文献》
河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(ちくま書房,2011)
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