2021/12/24

納得解から自覚へ


 「納得解」という言葉が道徳科授業で一般的に使われるようになりました。しかし、その「納得解」という言葉の意味をどこまで理解(教師自身が納得)をしたうえで使用されているのかに疑問を感じています。私自身も曖昧なまま使っていたように思いますし、「子どもが納得しているならどのようなゴールでもいい」という授業が増えているように感じているからです。

 このことについて、髙宮氏は著書『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』のなかで、共通解・納得解・自覚の違いについて説明をしています。


共通解

学級全体として到達した価値理解。

納得解

知的・概念的な価値理解に加えて、道徳的価値の善さや大切さ、困難さ、多様さなどを実感を伴って理解すること。

自 覚

「道徳的価値の自覚を深める過程」といわれるように、単なる状態ではなく、上記全てを含む過程のこと。学習した価値観をみずからの行為・生き方の指針とし、道徳的実践に至るまでの過程、知的・観念的な価値理解や人間理解を前提に、自己を深く見つめ、価値理解を自分との関わりで深めたり、自分自身の体験をそれに伴う感じ方や考え方を想起したりすることなどを通して、生き方を探求すること

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成


 上の表をつくることで、我々が考える道徳科授業の目的は、子供たちに「道徳性の自覚」を促すことであると再認識しました。

 また、「納得解」は「理解すること」であり、子供たちの行為・行動を決定づけるものではないということにも気づきました。「理解=行為・行動」であるとすれば、それはまさに価値観の押し付けという批判が生まれます。その授業で考えさせたい道徳的価値について理解をさせることが「納得解」であり、決して行為・行動を決めさせるものではないということです。「納得解」をもとに生き方を探求するなかで、自己の行為・行動を考え見つめさせることが、道徳科授業で求められていることなのでしょう。


《引用参考文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)

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