「納得解」という言葉が道徳科授業で一般的に使われるようになりました。しかし、その「納得解」という言葉の意味をどこまで理解(教師自身が納得)をしたうえで使用されているのかに疑問を感じています。私自身も曖昧なまま使っていたように思いますし、「子どもが納得しているならどのようなゴールでもいい」という授業が増えているように感じているからです。
このことについて、髙宮氏は著書『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』のなかで、共通解・納得解・自覚の違いについて説明をしています。
髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成
上の表をつくることで、我々が考える道徳科授業の目的は、子供たちに「道徳性の自覚」を促すことであると再認識しました。
また、「納得解」は「理解すること」であり、子供たちの行為・行動を決定づけるものではないということにも気づきました。「理解=行為・行動」であるとすれば、それはまさに価値観の押し付けという批判が生まれます。その授業で考えさせたい道徳的価値について理解をさせることが「納得解」であり、決して行為・行動を決めさせるものではないということです。「納得解」をもとに生き方を探求するなかで、自己の行為・行動を考え見つめさせることが、道徳科授業で求められていることなのでしょう。
《引用参考文献》
髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)
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