近年、道徳科授業における「問い返し」という発問形態が注目されています。多くの学校の研究テーマや指導案の中に「問い返すことで価値の理解を深める」というような文言を見かけます。
このことに関して、私の中に小さな違和感が生まれています。気泡のようなものが心の中でぷつぷつと生まれています。その違和感の正体は、「問い返し」に注目をすることで「中心発問」の存在が薄れてきているのではないかという疑問です。
確かに、子どもの発言を予想して、それに対する「問い返し」を事前に用意するという手立ては大変有効なことです。私も「問い返し」を通して授業を深めるということを大事にしてきました。
しかし、それは「中心発問」が子供たちの心に届くものであること、子どもの心がドキっと揺れ動くような「問い」が生まれることが条件になるのではないかと考えます。しかし、現状では「中心発問」についての議論があまりなされることなく「問い返し」についての議論をしているのではないかと危惧しています。
「問い返しすぎて一問一答になってしまった」という反省を聞くこともあります。その原因は、中心発問を通して子供たちの心に「問い」が生まれていなかったことにあるのではないでしょうか。子供たちが「問い」をもち、「考えたい」「伝えたい」という意欲が生まれる。その上で効果的に「問い返す」ことで多面的・多角的な思考が生まれるのだと考えています。
「考えたい」という思いのないまま「問い返し」をされると、発言することに拒否感を抱く子もいるでしょう。学びを深めるための「問い返し」が、がんばっている児童生徒を追い詰める「問い詰め」になってしまう恐れもあることを教師は自覚をするべきです。
基盤となるのは、学びを楽しむ子供たちを育てることです。それは子供たちが「問い」をもち、その「問い」を解決しようとする経験を経て育つものです。そして、「問い」をもたせる手立てが「中心発問」なのです。
「よい中心発問なくして、よい問い返しは生まれない」ということを意識し、まずは「中心発問」づくりに取り組んでみてはどうでしょうか。
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