5年生での2回目の役割演技(教材は「のりづけされた詩」)をした時のこと。授業後に演者の児童は役割演技をした感想を書いていました。
この感想を読み、授業者である私はハッとさせられました。演じた場面は、中心人物が担任の先生に、自分の非道徳的な行為(詩の盗作)を打ち明けるところでした。
演者の児童は、中心人物になりきり、行為を反省し、自分ごととして葛藤しながら打ち明けました。その時の気持ちが感想の中で「こんなに苦しくなったのは今までなかった」「地面にひびが入って足場をなくしている」と綴られていました。
果たして、この児童にそこまでの苦しさを実感させる必要があったのだろうか。授業後に悩みました。中心人物の苦しみや葛藤を実感させることは道徳科授業で大切にされていることですが、その実感が強く自分ごとになったとき、その子自身を苦しめてしまわないだろうか。そのように反省をしました。この授業のねらいは何なのか。演技をさせる目的は明確か。演者への配慮はされているのか。これらの視点を授業者が大事にしなければならないということに気づかされました。早川(2017)も、『役割演技の授業者として大切なことは、その授業のゴールを予想すること』と述べています。
なお、本授業では、打ち明けた後の心情に焦点を当て、その時の心情が自分自身の誠実さであるという理解を促すこと、それをもとに自分の行き方を考えさせることが大事であったと、今は思っています。
さて、上記のことは「いじめの場面を役割演技させてはいけない」ということにも共通していることを追記しておきます。安易にいじめ場面を演技させることは、いじめの増長やフラッシュバックを引き起こす可能性があるということを認識しておきたいです。
《引用参考文献》
早川裕隆『実感的に理解を深める!体験的な学習「役割演技」でつくる道徳授業』(2017,明治図書)
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