永野三智氏の著書の中に「大きな声にならない人の証言を、日常の中でていねいに聞き取り、綴って行きたいと改めて思います」という記述がありました。この言葉に、自身の教員生活をふり返りました。
教室の中の「小さな声」をどれぐらい丁寧に聞こうとできていたか。なんとなく楽しい雰囲気の学級の中に、小さな声で苦しさを訴えている子がいることに気づけていたか。
道徳科授業においても同じことがいえます。子供たちが抱いている違和感を大切に聞き取れていたか。教師の導きたい解に全員を連れていこうとして、納得できていない子の小さな声をないがしろにしていなかったか。日々反省しながら過ごしていきたいものです。
最後に、永野氏のメッセージを紹介します。
(以下、抜粋)
市内外での差別は、新聞に載ってようやく認められてきましたが、載らないからといって「差別がなくなった」わけではないのです。声にならない声を無意識のうちに「なかったこと」にすることの怖さ。
(以上)
道徳教育・人権教育を通して身につけさせたいものは、この「声にならない声に気づこうとする心」なのではないかと、私は思っています。
永野三智『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者のいま』(2018,ころから株式会社)
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