リフレクティングでは、「話す」と「聞く」を丁寧に行きつ戻りつさせます。実際の医療場面においては、ミラーや明かり、音声などの切り替えを使って「話す」と「聞く」の切り替えが行われるようです。
さて、この「切り替え」というリフレクティングの手法について、矢原(2016)は以下のように述べています。
(以下、引用参考文献から抜粋)
明かりと音声の切り換えは我々と家族の関係を驚くほど自由にした。われわれはもはや責任をもつ側にあるだけではなく、2つの側面の片側に(すぎなく)なったのである。
(以上)
さて、上記のことを道徳科授業というフィルターを通して考えてみると、「責任をもつ側」は教師の立場になることが多いでしょう。しかし、これまでは教師が授業の責任を全て背負い、子供たちをある地点(発言や思考、気づき)まで連れていかないといけないと思い込んでいなかったでしょうか。私も含めて多くの授業者が、発問や展開の工夫に取り組んできました。それは大変意味のあることではありますが、どれだけ大きく見繕っても、私たちは授業を創る片側に過ぎないのです。むしろ、考える主体は子供たちであり、唯一の正解を授業者が持っているかのごとく授業をすることは、なんとおこがましいことであるかを自覚する必要があるのではないでしょうか。
さて、私たちは、子供たちが「話す」ときに、どれだけ「聞く」ことができているでしょうか。教師が「話す」と「聞く」を明確に区別できるようになった時、道徳科授業は教師と子供がともに責任を背負う(創り上げる)ものとなり、さまざまな意見の交換からさらに新たな会話が展開していく授業になるのではないかと、私は思っています。
《引用参考文献》
矢原隆行『リフレクティング 会話についての会話という方法』(2016,ナカニシヤ出版)
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