2022/04/30

問い返し

 道徳科授業において、子供たちの発言に応じて即興的に出す発問を「問い返し」「切り返し」「補助発問」など、様々な名称で呼んでいるようです(論者によって呼び名が異なるので、明確な決まりはないと理解しています)。

 さて、深い学びを目指すためには、子供たちの思考や発言に応じた発問が必要になります。ここでは、問い返し発問について、髙宮(2020)が整理しているものについて考えます。髙宮は「問い返し」を大きく二つに整理しています。


 一つ目は、明確化のための「問い返し」です。

(髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり  教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成)

 

 上記の「問い返し」は、子供たちの思考を深めるための発問だと言えるかもしれません。子供たち自身が「そう言われたら、何でだろう・・・」と考えることで、気づいていない本当の気持ちや、自分が大事にしていることに気づかせることができるからです。

 しかし、この発問を発言者のみに頻繁に返してしまうと、発言を苦しく感じる子もいるでしょう。また、他者との対話につながりにくい側面もあります。そこで、一人の子供の発言を全体に問い返すという返し方も重要になってきます。「◯◯さんはとてもうれしいと言っているけれど、その理由をみんなは想像できますか?」という具合です。


 二つ目の「問い返し」は、「重層的な問い返し」です。

(髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり  教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成)

 

 上記の「問い返し」(重層的な発問)は、事前に子供たちの思考や発言を予想して用意していることもあるので、地域によっては「補助発問」と呼ばれることもあるでしょう。こちらは、思考を広げるための「問い返し」と言うことができるのではないでしょうか。

 この思考を『深めるため』と『広めるため』の問い返しを、日々の授業で効果的に活用していきたいものです。


《参考引用文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(2020,北大路書房)

2022/04/29

折れたタワー(6)『無関心という寛大』を防ぐ


 先日の記事で「ここで怒ったら、あとでもっとひどいことをされる」という児童の発言について論じました。この発言は子供たちの生活背景から生まれる発言であり、道徳科授業で大事にしたい発言になります。しかし、この思考過程は他者(本教材ではのりお)の思いや経験に対する関心はなく、自分を守ることだけに着目している思考だといえます。他者に対して「無関心」なのです。

 さて、この「無関心」について、髙宮(2020)は『無関心という寛大』(ブルーム,1998)という概念を説明しています。現在、多様性が強く求められていますが、多様性とは他者の意見を無条件に受け入れることではありません。これは、他者に対して閉じている状態になります。他者を理解しようとせず、無条件に受け入れたり許したりすることは、「無関心という寛大」の増加につながるということです(下図参照)。


髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり  教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成


 教材「折れたタワー」においても、ひろし(中心人物)になったつもりで、のりおの行為の背景に関心をもち、自ら対話しようとする経験をすることを通して、他者を理解しようとすることのよさと難しさを実感することが必要だと言えるのではないでしょうか。


《参考引用文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(2020,北大路書房)

2022/04/28

折れたタワー(5)いじめとの関連


 「のりおを許すことができたのは、ひろしの中にどんな思いがあったからでしょう」これは教科書に記載されている中心発問です。この発問に対してどのような反応が考えられますか。子供たちから出る意見の一つとして、

ここで怒ったら、あとでもっとひどいことをされる

という発言を予想しないといけません。

 この発言は、子供たちの素直な思考ではないかと私は思います。この発言が生まれる要因は以下のように考えられます。

(1)実生活で同じような経験をしてつらい思いをした。

(2)自分が我慢すれば平穏な生活が送れると、日々の生活を通して実感している。

(3)のりおを「悪者」に仕立てたことで、対話ができない存在として認識している。

 さて、(3)については、「安易に悪者を生まない」ことの重要性を先日お伝えしていますので、ここで着目したいのは(1)や(2)の意見です。

 おそらく、「許してあげることが正解」だと子供たちは気づいています。この「あとでもっとひどいことをされる」という意見は、指導書通りの授業ならば教師のねらい(授業の流れ)に沿わない意見になります。突然このような発言があると困惑してしまうかもしれませんね。

 しかし、私はこのような「生活経験から生まれる発言」こそ、道徳科授業で大事にしたいと思っています。授業に混沌とするかもしれませんが、その混沌こそが切なる

対話を生むきっかけになるからです。

 さて、「もっとひどいことをされたら嫌だから許す」という判断(行為)は、決して道徳的な課題を解決できるものではありません。これは自身の苦しみや悲しみに蓋をする行為だからであり、他者への無関心です。子供たち自身も、その蓋がいつか外れてしまうことに恐れを抱いているかもしれません。道徳科授業では、そのような自己の隠された思いや、その思いを隠すための蓋の存在に、発問や対話を通して気づかせることが重要なのです。だからこそ、上記のような発言(児童の生活背景から生まれる発言)が大事になるのです。

 このことに対して、例えば、のりおの考えや思いを想像させるような発問が授業前半で必要になるでしょう。また、授業後半で役割演技を入れることも考えられます。のりお役の児童(教師でも可)の「どうして許してくれるの?」というセリフから演じさせ、ひろし役の児童の即興的な演技(対話)を引き出すのです。または、友人であるまさる役の「マスクを忘れたときにあれだけきつく責められたのに、よく許せたな。どうして許せたの?」という始まりでもいいでしょう。

 また、演技後のリフレクティングの場面で「ひろしは我慢していたのか?」と尋ねてみることもおもしろいかもしれません。もちろん。役割演技を取り入れる際は、演者をどの児童とするか、授業過程での児童の思考や発言の見取りも重要になります。

 この「折れたタワー」という教材で、「相互理解、寛容」と「いじめ」との関係性を考えたいものです。

2022/04/27

阻害条件と促進条件


 村上敏治は、道徳的価値の実現を妨げる条件を「阻害条件」と呼び、阻害条件には「対象条件」「他者条件」「社会条件」「自己条件」の4つがあると述べています。


(1)「対象条件」

  その価値の理想が高いあまりに実現が難しいなど、価値そのものに付随する条件。

(2)「他者条件」

  周囲の人が価値の実現を邪魔するといった人的条件。

(3)「社会条件」

  環境や社会が価値の実現を妨げるといった社会環境的条件。

(4)「自己条件」

  価値の実現を妨げる本人の性格的な条件。


《参考引用文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(2020,北大路書房)

2022/04/26

折れたタワー(4)


 本教材の学習内容について、

(1)自分も過ちを犯すことがあるという自覚をさせる

(2)言葉の裏側にある背景や思いを理解しようとすることの大切さに気づかせる

 上記の二点がポイントになると先日お伝えしました。要するに、この二点について対話を促す発問や授業展開を考える必要があるということです。

 「自覚」という言葉を上記で使っていますが、髙宮(2020)は「道徳的価値の自覚」について、『すでに感情的には大切さを実感できていることであっても、その大切さを改めて知的に理解すること』が重要であるとしています。その理解を通して『児童生徒がみずから自分の内面のなかに内なる規律をつくり、それに基づいて行為すること』を期待するのです。

 また、「自分も過ちを犯すことがあるという自覚をさせる」という学習内容は、道徳科授業における「人間理解」になります。児童生徒に教材のなかの「悪人」を探させるのではなく、自分の「弱さ」を自覚することで他者を安易に裁いたり批判させたりすることを防ぐと髙宮(2020)は述べています。なお、このような「人間理解」は、将来的にSNS上での誹謗中傷を防ぐ効果もあるといえるでしょう。日々の道徳科授業で、その素地を育てていくということが大事になるのです。

 ただし、「自分も過ちを犯してしまうという自覚」という「人間の弱さ」を理解するだけでは、実際の道徳的行為にはつながりません。そこで大事になるのか、2つの視点をもとにした問いづくりです。

【阻害条件】(例)「どうしてなかなか相手を受け入れることができないのか」

【促進条件】(例)「どうしたら広い心をもてるのか」

このような条件を問うことで、道徳的価値の実現に何が必要なのかを理解させるのです。


《参考引用文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(2020,北大路書房)

2022/04/25

折れたタワー(3)


 学習指導要領解説「相互理解、寛容」の記載から、「折れたタワー」の授業づくりに係るポイントを抜粋します。

(以下、学習指導要領解説より抜粋。)

(1)寛大な心をもって他人の過ちを許すことができるのは、自分も過ちを犯すことがあると自覚しているからであり、自分に対して謙虚であるからこそ他人に対して謙虚になることができる。

(2)自分自身が成長の途上にあり、至らなさをもっていることなどを考え、自分を謙虚に見ることについて考えさせることが大切である。

(3)指導に当たっては、相手の過ちなどに対しても、自分にも同様のことがあるとして謙虚な心、広い心で受け止め、適切に対処できるように指導する。

(以上)

 上記の記載を整理すると、学習のねらいはこのようになるでしょう。

 ・自分も過ちを犯すことがあるという自覚をさせる

 ・言葉の裏側にある背景や思いを理解しようとすることの大切さに気づかせる

 「折れたタワー」の授業づくりの際には、子供たちがこれらのことを真剣に考えられるような発問や展開が必要になると言えます。

2022/04/24

折れたタワー(2)


 5年生教材「折れたタワー」について考えていきます。

 本日は、本教材の登場人物「のりお」に注目してみましょう。マスク忘れのぼくに対して「どうしてくれるんだ」「あやまれよ」と、大きな声でどなる姿。級友のまさるが諭してくれた後も、ぶつぶつ文句を言っている姿。どうでしょう。教室の「あの子」を想像できませんか。おそらく、そのような姿と日常的に接している先生も多いのではないでしょうか。

 本教材の授業前半で、のりおの言動に対して怒りを抱かせる展開(発問)がよく見られます。僕(ひろし)の悲しみや怒りに共感させることで、後半の発問につなげるためです。

 しかし、道徳科の授業のなかで安易に「悪者」を作り上げていいのでしょうか。他者への怒りを誘導する必要があるのでしょうか。私は反対です。その子の特性を理解しようとせず、行為のみで悪者を作り上げるようなことを道徳科授業ですべきではないと考えています。

 のりおは、ひろしのマスク忘れについて大きな声で怒ります。もしかすると、給食当番という役割に人一倍責任感をもっているのかもしれません。作品を壊してしまったことも、もしかすると不注意でいつも同じようなことをしてしまい、心の中で反省をしているかもしれません。のりおは、給食当番に対して、忘れ物やマスクの用意に対して、どのような見方をしているのでしょうか。そのことを考えさせることが大事なのではないでしょうか。

 だからこそ、のりおを悪者に仕立て上げるのではなく、想像を広げさせ、のりおの見ている景色や思いを理解しようとすることを授業前半に取り組んだほうがよいと考えます(ここでは構成的グループエンカウンターのエクササイズ「短所を長所に」が効果的です)。それに、もしのりおを悪者に仕立てたとすると、学習内容は「気に入らない相手も許してあげることが大切だ」というようなものになってしまいます。しかし、学習指導要領解説の内容を読んでもそのような記載はありません。

 解説に書かれている内容をまとめると、「相手の考え方や意見、立場を広い心で謙虚に受け止めることで、自分の見方や考え方が豊かになる」ということを自覚させることが大切になるのです。「気の合わない相手を我慢して許す」のではなく、相手が大事にしていることや思いを知り、それを受け止めることで自分の見方が豊かになる」という内容を学ばせることこそ、本教材のねらいになるのだと考えます。

2022/04/23

折れたタワー(1)


 日本文教出版5年教材「折れたタワー」について考えていきます。

 まず、内容項目を見てみましょう。本教材の内容は「相互理解、寛容」です(なお、低学年には該当項目はありません)。


(1)【自分の考えや意見を相手に伝える】

 本内容には、全ての発達段階に共通して「自分の考えや意見を相手に伝える」という記載があります。他者のことを理解するには、まず自分の思いを伝えること(自己開示)が大切であるということを示しています。教材の中のぼく(ひろし)は、自分の思いをきちんと伝えられていたのか。その視点が授業づくりのポイントの一つになると考えられます。実際にぼくの思いを伝えてみるという体験(役割演技)も効果的になるでしょう。


(2)【広い心の矢印の向き】

 それぞれの学年の内容は以下のようになります。

(以下、学習指導要領解説より一部抜粋)

『中学年』

 「(前略)相手のことを理解し、自分と異なる意見も大切にすること。」

『高学年』

 「(前略)謙虚な心をもち、広い心で自分と異なる意見や立場を尊重すること。」

『中学校』

 「(前略)それぞれの個性や立場を尊重し、いろいろなものの見方や考え方があることを理解し、寛容の心をもって謙虚に他に学び、自らを高めていくこと。」

(以上)

 どの発達段階も「自分と異なる他者を理解する」ことに重きが置かれています(その「他者を理解する」ということを「広い心」と表現することもあります)。

 では、何のために他者を理解する必要があるのでしょう。ここで大事にしておきたいポイントは、「他者の考え方を知ることで、自分の世界が広がる(見方や考え方が豊かになる)」ということを自覚させるということです。補助発問として、「なぜ、相手の思いを理解しようとする必要があるの?」と尋ねてみてもおもしろいかもしれませんね。

 道徳科の目的は、簡単にまとめると「他者や教材を鏡として自分を映し出すことで、自分の経験や考え方をふり返り、生き方を考えること」になります。本教材では、作品を壊してしまったひろしを許すかどうかに注目してしまいがちですが、大事なことは他者(のりお)の思いを理解しようとするぼく(ひろし)の心が豊かになっていることに気づかせることになります。「広い心」の矢印は、自分(ぼく)に向くことを自覚させることをねらいとすべきなのです。


《参考引用文献》

『道徳科「深い学び」のための内容項目ハンドブック』(2020,日本文教出版)

2022/04/22

心理的発達を促すエクササイズ


 構成的グループエンカウンターにおける「エクササイズ」とは、「心理的発達を促す課題」のことをいいます。教材を活用するという条件のもと、「エクササイズ」による自己開示や他者理解を加えることにより、子供たちに「自分たちの問題」として道徳的諸価値を受け取らせることをねらいます

 エクサイズの一例として、例えば「自分の短所を示す言葉を別の言葉に言い換える」というものがあります。自分が短所だと思っていることを別の視点で捉えさせ、見方を変えさせることをねらう活動です。「 頑固」→「意志が強い」、「行動がおそい」→「慎重」、「よくしゃべる」→「ムードメーカー」といった感じです。二人一組などのグループで行うことにより、「自己を見つめ個性を伸ばす」というねらいを他者との分かち合いのなかで体験的に理解させるエクササイズになります。

 さて、日本文教出版の5年生に「あいさつ運動」という教材があります。この教材では、進んで心のこもった挨拶をしようとする態度を養うことをねらいます。

 私は、この教材での学習活動で、様々な枠を用意して(構成的)、実際にあいさつをし合うというエクササイズを実践しました。条件を限定した状態であいさつをし合うことで、どのようなあいさつがうれしかった(さみしかった)か。なぜ、うれしい(さみしい)と感じたのか。これらを考えさせるための「あいさつゲーム」というエクササイズ(学習活動)です。このエクササイズに取り組ませることで、「心のこもったあいさつとは、どのようなものか」という発問について実感的に理解させることをねらいました。

 ここで忘れてはいけないのは、授業のねらいを明確にすることです。エクササイズでいくら子供たちが盛り上がろうとも、形だけ真似をすると本来の目的は果たせないからです。


《参考引用文献》

貝塚茂樹『道徳教育を学ぶための重要項目100』(2016,教育出版)

2022/04/21

構成的グループエンカウンターと道徳教育


 道徳科授業における体験的な活動の一つとして実践されている「構成的グループエンカウンター」。道徳的諸価値の理解や実感を促す手立てとして、学習活動に様々なエクササイズを取り入れている方が多いかもしれません。

 ここで、「構成的グループエンカウンター」の言葉の意味を調べてみましょう。それぞれの言葉の意味はこのようになります。


「構成的」=「枠を与える」

「グループ」=「小集団」

「エンカウンター」=「出会い、めぐりあい」


 与えられる「枠」を道徳科の教材や発問として捉えてよいのなら、「グループ」は学級集団や隣ペアになります。そして、子供たちは教材や発問を通して他者と対話し、新たな自分に出会います。そう考えると、道徳科授業そのものが、子供たちにとって道徳教育における構成的グループエンカウンターのエクササイズになり得るのではないでしょうか。

 道徳科授業の在り方の一つとして、私は構成的グループエンカウンターをもっと調べていきたいと思っています。


《参考引用文献》

貝塚茂樹『道徳教育を学ぶための重要項目100』(2016,教育出版)

2022/04/20

内観法


 構成的グループエンカウンターのエクササイズの一つとして「内観法」があります。吉本伊信(1916-1988)が、身調べという浄土真宗の一派に伝わる精神修養法をもとに考案した、自己の内面を観察する方法です。

 「内観法」では、例えば、身近な人に対する自分の行動を、具体的なエピソードを思い出しつつ、三つの観点「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」から見直していきます

 さて、道徳科授業では「自己をふり返り、生き方を考える」ことを重視します。どのようにふり返るのか、どのように生き方を考えるのか、そのための発問や展開を考える際に「内観法」というエクササイズがヒントになるのではないでしょうか。


《参考引用文献》

貝塚茂樹『道徳教育を学ぶための重要項目100』(2016,教育出版)

國分康孝・國分久子編『構成的グループエンカウンター辞典』(2004,図書文化)

2022/04/19

構成的グループエンカウンター


 学習指導要領解説に「道徳的行為に関する体験的な学習等を適切に取り入れる」という記述があります。これは、様々な体験活動を自由に取り入れてよいということではなく、考えるべき道徳的諸価値の理解に体験的な活動が効果的であると想定される場合に取り入れるという認識になります。

 さて、「体験的な学習」の一つとして、「構成的グループエンカウンター」という手法があります。カウンセリングの主要理論を土台として、國分康孝・久子夫妻が開発した手法であり、 グループを活用したカウンセリングとしての位置付けになります。その特徴は、人間関係構築を通しての自己発見や他者理解をねらうという手法になります(エンカウンターとは、もともと「出会い」「めぐりあい」を意味します)。

 さて、構成的グループエンカウンターの「構成的」とは、「枠を与える」という意味であり、「グループサイズ」や「時間制限」、「条件」など、指定された枠内においてエクササイズを遂行することを意味しています。

 その理由として、例えば、「何でもよいから話してください」という漠然とした指示よりも、「自分が好きな◯◯について一分間話してください」という枠を与える方が、それが手引きとなって自由な言動を誘発することができるからです。


《参考引用文献》 

貝塚茂樹『道徳教育を学ぶための重要項目100』(2016,教育出版)

2022/04/18

教師は2つの側面の片側にすぎない


 リフレクティングでは、「話す」と「聞く」を丁寧に行きつ戻りつさせます。実際の医療場面においては、ミラーや明かり、音声などの切り替えを使って「話す」と「聞く」の切り替えが行われるようです。

 さて、この「切り替え」というリフレクティングの手法について、矢原(2016)は以下のように述べています。

(以下、引用参考文献から抜粋)

明かりと音声の切り換えは我々と家族の関係を驚くほど自由にした。われわれはもはや責任をもつ側にあるだけではなく、2つの側面の片側に(すぎなく)なったのである。

(以上)

 さて、上記のことを道徳科授業というフィルターを通して考えてみると、「責任をもつ側」は教師の立場になることが多いでしょう。しかし、これまでは教師が授業の責任を全て背負い、子供たちをある地点(発言や思考、気づき)まで連れていかないといけないと思い込んでいなかったでしょうか。私も含めて多くの授業者が、発問や展開の工夫に取り組んできました。それは大変意味のあることではありますが、どれだけ大きく見繕っても、私たちは授業を創る片側に過ぎないのです。むしろ、考える主体は子供たちであり、唯一の正解を授業者が持っているかのごとく授業をすることは、なんとおこがましいことであるかを自覚する必要があるのではないでしょうか。

 さて、私たちは、子供たちが「話す」ときに、どれだけ「聞く」ことができているでしょうか。教師が「話す」と「聞く」を明確に区別できるようになった時、道徳科授業は教師と子供がともに責任を背負う(創り上げる)ものとなり、さまざまな意見の交換からさらに新たな会話が展開していく授業になるのではないかと、私は思っています。


《引用参考文献》

矢原隆行『リフレクティング 会話についての会話という方法』(2016,ナカニシヤ出版)