道徳科の授業づくりについて話を聞く機会がありました。日々学ぶ機会があることに喜びを感じながら、少しでも自分の力にできるよう意識しているところです。
さて、その日の授業助言の中で、「考えるにもっと自由があってもいい」という教えがありました。それ聞いた時、とても力のある言葉であり、現在の道徳科授業の課題そのものであると感じました。
道徳科授業を考える際、「どのようにして子供の意見を引き出すか」という視点で発問や展開を構成することが多いかもしれません。しかし、その視点の土台は「子供は何も考えることのできない存在である」という認識ではないでしょうか。
「特権」という考え方があります。自分たちがふつうで当たり前であり、ふつうで当たり前ではない他者を自分に近づけようとする考え方です。上記の視点で考えると、教師が当たり前であり、子供達は近づけられるべき存在となります。はたして、本当にそうなのでしょうか。
子供たちに必要なのは「考える」という経験の積み上げであり、「学び方(物事の考え方)」を獲得させることだと私は思っています。それらを道徳科の授業で育てていくべきなのです。
ある日の授業で、「授業をおもしろくするために、あえて〜と発言します」という発言をした男の子がいました。一見すると「授業を横道にそらしている」と見てしまう発言です。しかし、後々考えてみると、実は男児は日々の道徳授業を通して「様々な見方で考えることのよさ」を実感していたのだと思えるようになりました。
以前に「オープンダイアローグ」という考え方を紹介した際に、「対話の目的は、対話そのものである」ということを述べました。道徳科授業においても「対話する(考える)ことそのものが目的である」と認識してはどうでしょうか。まずは教室に対話を生むことを第一に考えるのです。
そうであれば、やはり大切になるのは「発問」です。子供たちが「考えたい」と思える発問を追い求めること。このことについて、今後も研究を重ねていきたいと思います。
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