「話を聴く」ということは簡単なようで、実はとても難しいことです。私たちは子供たちの発言を確かに聴けているのでしょうか。よく「傾聴することが大切だ」と言われますが、ただ話の内容を理解しようとしているだけではないでしょうか。または、聴く姿を見せながら、実は頭の中で次の展開を考えてはいないでしょうか。
例えば、道徳科の授業の中で子供たちの発言をどのように聴いていますか。どのような反応をしていますか。「なるほど」「いいね」と返すだけでいいのでしょうか。
一瞬心が揺らぐような、「言葉が心に届く感覚」を子供たちに感じてほしい。ある一つの言葉や語りが体中を巡るような感覚を味わってほしい。そのように願っています。それは決して正解を届けるということではなく、子供自身が全く想像していない見方・考え方に気づかせてあげることなのかもしれません。
例えば、日々の子供(保護者)との関わりに目を向けてみます。我々教師は、何かの相談を受けた際、その内容を自分の経験をもとに分類・整理しようとする傾向があります。どうやら、効率的な「答え」を伝えようとすることが多いように思います。経験があることは強みではありますが、相談する側はそのような「経験からの分析」を求めているのではなく、自分の知らない自分に気づいてほしい(気づかせてほしい)のかもしれません。
私たちは、目の前の子供たちの世界について無知だと認めるべきです。相手の話にもっと興味をもつべきです。「あなたの話はとても興味深い」「あなたの語りを大事にする」というメッセージを全身で届けるのです。そうすることではじめて「聴く」という行為が成り立つのではないでしょうか。
授業の展開や「問い返し」の発問を考えたりすることは大事なことです。しかし、それ以上に、精一杯伝えようとしている子供たちの「声」を聴いてあげることも大切にしたいものです。その教師の姿こそが子供たちの「よりよく生きるための道徳性」を育む大きな要素になると考えています。
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