「主体的で対話的な深い学び」という言葉が新学習指導要領での目指す学び方となっています。これだけを見ると、「対話」は深い学びを生み出すための手段と捉えがちです。
しかし、道徳科に限っていうと、「対話」そのものを目的に据えてはどうだろうかと私は考えています。
対話をすることで、子供たちは自分の内にある言葉を紡ごうとします。ゆっくりだとしても、自分の言葉で語ることで自己を見つめることができます。また、友達の語りを聴くことで考え方の違いに気づくことができます。社会には様々な考え方があり、自分もその中の一人であることを感じることができます。
対話そのものを目的と考えると、教師はその対話の場を整える役割であり、教材は対話のテーマを与えてくれるものとなります。では、発問はどのような役割でしょうか。
発問の大きな役割は、「多面的・多角的に考える」という思考方法を子供たちに身に付けさせることだと認識してみてはどうでしょうか。中心発問は「ものごとの本質を捉える見方を養うもの」であり、補助発問は「異なる立場や価値観から考え、様々な可能性や影響を想像する見方を養うもの」と捉えると、学年を重ねるにつれて「発問」=「見方」を子供たち自身が使えるようになること理想的ではないかと考えています。
子供たちが「えっ!」と驚くような発問をすることで議論は活性化します。その際、授業での学習内容を深く考えさせるとともに、そのような見方をしたら道徳科授業がどんどんおもしろくなるということも隠れたメッセージとして届けていく。授業者はこのような意識も必要ではないかと最近は感じています。「発問を出すおもしろさを教師だけが味わうなんて、ずるい!」ということです。
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