本日は道徳科授業における「主体的な学び」について考えます。畿央大学の島恒生氏は「道徳教育 2021 8月号」(明治図書)の中で以下のように述べています。
(以下、抜粋)
『道徳科における「主体的な学び」とは、「児童生徒が問題意識を持ち、自己を見つめ、道徳的価値を自分自身との関わりで捉え、自己の生き方について考える学習」とされている。「児童生徒が問題意識を持つ」とは、子どもたちの頭の中に、「問い」が立つことである。教師からの発問に、「確かに、どうしてだろう?」「考えてみたいな」と、子どもたちにとって自分との問いとなることである。』
(以上)
子どもたちの頭の中に問いを立たせる。東京学芸大学の永田繁雄氏は同じ号の中で『子どもが「学びの主体意識」をもつことを阻むもの』と称して、よくない例を5つ述べています。
(以下、一部抜粋)
『子どもにこのような意識をもちにくくすることはかんたんだ。(途中略)例えば、次のようにすることである。
◯学習テーマや課題を教師から提示する。
◯事前に用意したテーマカードを配る。
◯用意した発問カードを並べていく。
◯小さな問いを連続させていく。
◯発問や指示が配列されているワークシートを用いて書かせる。
(以上)
どれもよく見かける光景です。特に、研究授業ではお決まりのように見慣れたものです。これらは、教師が授業のレールを作るための行為になります。もちろん、全てがいけないわけではありません。あえて課題を教師が提示をすることもあります。しかし、多くの場合は教師が安心するために、いわゆる想定外の発言を出させなために短冊や発問カードを準備することが多いと想像します。
一生懸命に考え、勇気を持って発言をした。すると、教師は事前に用意した短冊を黒板に貼った。「あれ?先生は僕の発言を待っていたのかな?やったー。正解だったんだ!」このような思考が子供たちの頭の中に生まれるのではないでしょうか。教師に忖度をして正解を探す道徳科授業の完成です。
そのような授業で子供たちはおもしろさを感じるでしょうか。数年前、5年生の児童がこのような感想を書いていました。
『道徳授業のよさは、反対意見の人と賛成意見の人で、どうしてそうなのかと、どんどん話し合いが進むことです。だから、「自分たちで考えた道徳の授業」ができます』
「自分たちで考えた道徳の授業」という言葉を、当時の私はとても嬉しく思いました。主体的に学ぼうとしている姿がそこに見えました。
発問や展開を考えることは重要です。しかし、それは教師の視点から考えるのではなく、いつでも子供たちの視点に立って考えたいものです。
(引用参考文献)
『道徳教育』2021年8月号(明治図書)
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