先日は「学習内容を明確にする」ということを述べました。今回は実際に授業の展開案を考えてみようと思います。
例えば、「助け合う」に着目して、学習内容を「一人ぼっちの人に声をかけることのよさ」にしてみます。すると、本教材で大事にしたい活動は、その「よさ」を実感させることになります。その手立てとして、例えば役割演技などが考えられるでしょう。
または、「みんなといっしょに遊ぶ喜び」を学習内容にするとします。低学年は「結果に着目」させることを重視しますので、授業の中で「みんなといっしょに遊ぶ喜び」を実感させる場面が必要になります。教材の中だと、りすを背中に乗せている時のみんなの気持ちを想像させることになります。
このように、本教材で考えさせたい学習内容によって、中心的な活動(発問)場面は異なるべきだと、私は思っています。
さて、この教材ではかめたちの心情として「楽しくない」「楽しい」という言葉が出てきます。このことについて、子供たちは本当に共感しているのでしょうか。「教材には楽しくないと書いているけれど、僕は楽しいと思うな」と感じている子はいないでしょうか。授業者(教材)が登場人物の感情を決めてしまうことについて、もう少し慎重に捉えてみる必要があるのではないでしょうか。
なぜなら、「登場人物=児童」という自我関与が道徳科授業の前提としてあるのであれば、授業者が子供たちの感情を決めつけてしまうことになるからです。これでは、個々を大事にした道徳科授業になるはずがありません。
そこで、「楽しいかどうか」についても、きちんと子供たちに考えさせてはどうでしょうか。手立てとして、「心情円盤」や「心のものさし」が有効になってくるでしょう。同じ「楽しい」という言葉を使っていても、その割合は大きく違う可能性があります。その「違い」こそ価値理解の「ずれ」であり、対話のきっかけになるものなのです。
初めから「楽しい」や「楽しくない」ということを決めてしまうと、「その時にどんなことを考えたでしょう」と尋ねたとしても出てくる意見はほぼ同じになってしまいます。確かに答えは整うけれど、多様な考えは決して生まれません。まさに、教師がレールを敷いている授業になってしまいます。
しかし、「楽しいかどうか」を尋ねたとしたら、意見が分かれることが予想されます。もしどちらかに意見が偏った場合は、教師がその反対意見を発言してもいいのです(いわゆる補助発問)。そうすることで、「だって・・・」「でも・・・」という意見が子供たちから生まれます。これこそ、生活経験を想起して発言している姿であり、主体的に学ぼうとしている姿であると言えるのではないでしょうか。私は、そのような道徳科授業を求めていきたいと思っています。
0 件のコメント:
コメントを投稿