2021/11/30

価値観を広げる道徳授業づくり(5)


 髙宮正貴氏は、デューイの道徳観をもとに「人が『所有するもの』だけではなく、人が『なるもの』、つまり『性格』に注目すべき」として、「性格(character)」に注目して発問を考えることが必要だと提唱しています。「性格」を問うことで、たんに「行為」の解決策を考えるのではなく、「その行為をとおして、あなた自身はどんな人になりたいか」を考えさせることができるということです。

性格に着目した発問

・あなたなら、どういう人になりたい?

・あなたなら、どちらの人になりたい?

・どちらの人の方がより◯◯(道徳的価値)かな?

性格の長期的な利益

(結果・帰結)

・どちらの人がいれば、社会はよりよくなるだろう?

・Aさんみたいな人がたくさんいると、社会はどうなっていくだろう?

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』より)


 例えば手品師の授業では、「手品師はどうなるか」「少年はどうなるか」という短期的利益を考えさせるのではなく、「性格の長期的な利益」を問うことで、「誠実」な性格であることの社会的な利益を問うことができると髙宮氏は述べています。

 従来の心情型授業では、手品師はどちらに行くべきかの選択・議論をさせるけれど、子供たちが納得できる『解』を見付けられなかったり、道徳性の『自覚』が十分にされないまま授業が終わることが多かったのではないでしょうか。

 学習移動要領解説においても「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、自立した個人として、また、国家・社会の形成者としてよりよく生きるために道徳的価値に向き合い、いかに生きるべきがを自ら考え続ける姿勢こそ道徳教育に求めるもの」とあります。道徳性の自覚の先には『社会の形成者としてよりよく生きる」という未来があるのであれば、道徳科授業においても『よりよい社会』(性格の長期的な利益)を意識させていく必要があると考えられます。

 「少年のところに行く手品師」と「大きな舞台に行く手品師」、どちらの人がたくさんいたら社会はよりよくなるでしょうか。では、社会が求めている『社会』とは、どのようなものなのでしょうか。そのようなことを道徳科授業で考えさせていくことが、子供たちの道徳性の『自覚』につながっていくのでしょう。


《参考引用文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)

2021/11/29

「主な人権課題」を扱う道徳科授業(高齢者)


 「主な人権課題」とは、法務省が国民全員で解決すべき問題と定める日本国内での人権課題であり、「こども」「高齢者」「障害のある人」など16の課題があります

 ある年、「小学校で認知症について学ばせてほしい」という要望がありました。それを受けて、副読本を活用して認知症について学ぶ道徳科授業に取り組みました。対象は5年生です。中学校3年生の教科書には「一冊のノート」という認知症を扱った教材がありますが、小学校教科書にはありませんでしたので、副読本の使用としました。

 「認知症」を扱うにあたり、まず考えたことは「知識があるかどうかで理解や実感が大きく異なる」ということです。人権教育には「知識的側面」「価値・態度的側面」「技能的側面」の3つの側面があります。本授業を考える際、教材の中の母親(祖母に対してやさしく接している)の気持ちについて考えさせたとしても、認知症についての知識がないと議論が成立しないと判断しました。

 そのため、地域の包括支援センターに相談をして、認知症についての特別授業をしてもらうことにしました。ただし、突然にその特別授業を実施したとしても、子供たちの心には何も届かないかもしれません。知識がないということは、自分ごととして話の内容を捉えられないと思ったからです。

 そこで、2時間扱いの授業を計画しました。1時間目は道徳科の授業として教材を使って学習。その様子を地域包括支援センターの職員の方々に参観してもらいました。予想通り、「認知症の祖母に対する母のやさしさについてどう思うか」という問いに対して意見が対立しました。しかし、ここではどちらかの意見を取り上げて新たな価値理解をうながすということはしませんでした。

 2時間目は、地域包括支援センターの方々による特別授業です。認知症の症状や医療ケアの難しさ、また、教材の人物の気持ちについて専門家の立場から意見をもらいました。ペープサートを作ってきてくださったのですが、教材にはいない「お医者さん」も登場し、わかりやすく説明をしてくれました。

 下記は、2時間目の授業後の児童感想の一部です。

改めて「私の祖母」についてふり返ります。私は母がやさしすぎると思っていたけれど、認知症のことを聞いて、「いや、でも、やさしくしてあげてもおかしくないのかな?」と思い、でも私は、「やっぱり・・・」という感じです。でも、前よりはお母さんの気持ちがわかるようになりました。もう一度話し合いがしたいです


ぼくは、はじめはお母さんが優しすぎて、なんでそんなにやさしくするのと思っていたけれど、今は全然違います。お母さんは、おばあちゃんがもっとひどくならないためにやさしくしているとわかったから、お母さんの愛情がすごくて、認知症の勉強をして、こんなにも自分の考えが変わるなんて思ってもいませんでした

 どちらの児童も、1時間目を終えた時の感想は、「あまりやさしくしてはいけない。ダメなことはダメと伝えるべきだ。それもやさしさだ」という意見を持っていました。しかし、2時間目を終えた後は、新たな見方・考え方を獲得しているように思います。

 道徳科授業でゲストティーチャーを招くことは大変意義のあることです。多様な大人に接することは、子供たちの未来を明るく照らすことにつながります。しかし、ただ招聘するだけではその効果も薄れてしまいます。授業者のねらいとゲストティーチャーの思い、そして児童生徒の実態が合致させることで、はじめて感動が生まれる授業となるのです。

 今回はあえて1時間目の授業で子供たちの実際をゲストティーチャーの方々に見てもらうことにしました。「5年生の子供たちは、もっと知識があると思っていた。でも、とても真剣に話し合っている様子に驚いた。」という感想をもっておられました。

 子供たちにとっても、1時間目の授業での真剣な対話をがあったからこそ、2時間目の特別授業でも自分ごととして真剣に聞くことができました。感想からも感じられますが、自分の考え方を見つめることができ、今後の生き方について思いを深めることができていたように思います。

 人権課題を扱う授業では、どうしても「知識」が必要な場合があります。45(50)分の授業の中で知識と価値・態度(心)の両方を意識することが難しい場合は、今回のように2時間扱いとすることも考えてみてはどうでしょうか。また、外部の方の力を積極的にお借りする(ゲストティーチャー)ことで、子供たちの学びをより深められるかもしれません。

2021/11/28

価値観を広げる道徳授業づくり(4)


 「多面的・多角的に考える」ということは、多様な意見を引き出せばよいということなのでしょうか。この問いに対して髙宮氏はこのように述べています。

(以下、著書より抜粋)

「多面的・多角的」は、たんに「多様」に考えることと同じではありません。「対話的な学び」で、児童生徒みんなの意見をそのまま受け入れるだけでは、道徳的価値の理解は深まりません。

(以上)

 近年、「多面的・多角的」や「対話的」という言葉が広がり、道徳科授業にも変化が見られるようになりました。しかし、その結果、「ただ意見を発表しているだけ」という授業も多く生まれています。活発な話し合いこそ見られますが、「今日はたくさん発表できましたね。どれも大切な考えだと先生は思います」という終わり方をするような授業です。その授業に、本当に学び(道徳性の拡大)はあったのでしょうか。

 髙宮氏は、たんに横並びの「多様性」を認めるのではなく、肯定と否定の両面を考えたり、理想と現実について条件を変えて考えたりすることが大事であり、そこに『深い学び』がある」とも述べています。このことを、アラン・ブルームの「無関心の寛大(openness)の増大」という考え方を使って説明をしています。多様性を認めることは一見よいことに思えますが、しかし、それは一人ひとりはまったく他人に対して閉じている状態であり、他人に対して無関心になってしまう場合もあるいうことです。

 以前に、心理療法である「オープンダイアローグ」における「対話」について述べました。研究の背景によって「対話」という言葉のもつ意味は大きく異なると感じています。私たち授業者は、「対話」という活動の意義を明確にしていく必要があります。近年、多くの学校の研究テーマに「対話を通して」という文言が含まれています。その「対話」とは、いったいどのような状態のことをいうのでしょうか。一度考えてみるべきでしょう。その答えの指針となるものが、今回紹介している髙宮氏の著書にあるように思っています。


髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)

2021/11/27

価値観を広げる道徳授業づくり(3)


 髙宮正貴氏の著書『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』をもとに、「多面的・多角的に考える」ことについて述べていきます。

 新学習指導要領が施行された際に大きな話題となった「多面的・多角的」という言葉。もともとは社会科で使用されていた言葉のようですが、特別の教科 道徳においても重要なキーワードとして位置づけられています。

 当初は「多面的とは?」「多角的とは?」「なぜ『・』がついているのか」など様々な議論がなされましたが、現状は「あまり言葉にこだわらず、多様な考え方をさせるたらいい」という認識が一般的に広まっているように感じています。

 本書では、その「多面的・多角的に考える」を明確に説明しています。

(以下、著書より抜粋。表は筆者作成)

多面的に考える

道徳的価値そのものがもつ意味の様々な側面を考える。

多角的に考える

ある道徳的価値や道徳的問題を考える条件や観点の多様性を考える

(以上)

 「多面的に考える」とは、道徳的価値の持っている様々な側面を考えることです。髙宮氏は「意味の複数性を考える」と定義しています。例えば、友情であれば、「対等性」や「互恵性」、「切磋琢磨」など、その道徳的価値のもつ「意味の複数性」を考えさせることが「多面的に考える」ということになると述べています。例えば、複数の意味を対立させることで、その価値の意味を学ばせることができるでしょう。

 「多角的に考える」については、考える際の条件や視点を変える(加える)ことになります。観点の多様性を大事にすることになります。例えば「友情」であれば「ずっと連絡がなくても友情は続くだろうか?」「嘘をつかれても友情は続くだろうか?」など、多様な条件を加えながら道徳的価値についての理解を深める学習が「多角的に考える」ことだと髙宮氏は述べています。


髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)


2021/11/26

価値観を広げる道徳授業づくり(2)


 道徳科授業においては「3つの理解」が大切だとされています。価値理解・人間理解・他者理解です。そのうちの「人間理解」について本日は述べていきます。

 「人間理解」とは、「価値の善さを理解していても、それを実行できない人間としての弱さを理解すること」になります。このことは、我々の日々の生活の中でよく実感していることです。「意見を発言した方がいいことは分かっているけれど」という場面を想像すると、人間(いわゆる自分)の弱さを実感するとともに、行為を実行できない要因を自然と考えるのではないでしょうか。

 このように、「弱さの実感」と「行為を実行できない要因」を考えさせることが、道徳科授業での「人間理解」になるといえます。

 さて、髙宮正貴氏は、著書の中で「人間理解の重要性」について以下のように述べています。(以下、著書より抜粋。表は筆者作成)

「望ましいと思われる分かりきったことを言わせたり書かせたりする授業」を防ぐ。

道徳的価値を自分との関わりで考えること(自我関与)によって、道徳的価値の自覚をうながす。

児童生徒が、教材のなかに「悪人探し」をするのではなく、自分にもある「弱さ」を自覚することで、「裁く道徳」を回避する

(以上)

 「裁く道徳を回避する」という点について、私は「なるほど」と思いました。髙宮氏の書籍を読んでいて、新たな視点を得ることができた瞬間でした。経験を整理できたという方が妥当かもしれません。

 教材には「弱いぼく」や「悪いあの子」が出てきます。学級の中には教材の外から物語を読もうとする子がいます。高学年になれば、その傾向は強いかもしれません。そうなると、どうしても「こんな行動はおかしい」「間違っている」という発言を簡単にしてしまいます。そして、自分は正義となり、教材の人物を裁くことに気持ち良さを感じるようになります

 その子たちの発言は、決して間違いではありません。むしろ、正しいことを言っています。しかし、どこか無責任であり、学びの深まりを感じることのできない発言になっています。本人達に自覚はないけれど、まるでインターネット上での批判のようなものになっているのです。

 そこで重要になるのが「人間理解」だと髙宮氏は述べています。「自分の弱さ」を自覚するということ、いわゆる「自分も同じようにしてしまうかも」「同じような経験があった」と自己を見つめさせることで、そのような「悪人探し」や「裁く道徳」を回避し、悪や不正に立ち向かうための心を考えさせることができるということです。

 このような道徳科授業の本質を授業者が理解をしておくと、発問や展開を考える際の「重み」が変わってくるのではないでしょうか。


髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)


2021/11/25

価値観を広げる道徳授業づくり(1)


 とても素敵な書籍と出会いました。髙宮正貴氏の『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める」という書籍です。手に取り、サッと見ただけで、「すぐに買って読みたい!」という気持ちにさせられました。

 私がなぜこの書籍に惚れたのか。それは、我々が当たり前に使っている言葉や学習活動に意味や意義を教えてくれているからです。「なぜ、その発問をしたのですか」と、よく研究授業の事後検討会で話題になります。しかし、その検討の多くは深まりません。誰も「なぜ」に答えられないからです。曖昧な理由を聞き、曖昧な納得をして、時間が過ぎていきます。本書は、その「なぜ」に答えてくれる内容になっています。

 「なぜ、自己を見つめるのですか?」「心情追求型の授業は、なぜ批判されたのですか?」「価値観の押しつけとは、何ですか?」など、道徳科授業の特質について考えてみたい方に強くおすすめします。


髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)



2021/11/24

話を聴くということ



 「話を聴く」ということは簡単なようで、実はとても難しいことです。私たちは子供たちの発言を確かに聴けているのでしょうか。よく「傾聴することが大切だ」と言われますが、ただ話の内容を理解しようとしているだけではないでしょうか。または、聴く姿を見せながら、実は頭の中で次の展開を考えてはいないでしょうか。

 例えば、道徳科の授業の中で子供たちの発言をどのように聴いていますか。どのような反応をしていますか。「なるほど」「いいね」と返すだけでいいのでしょうか。

 一瞬心が揺らぐような、「言葉が心に届く感覚」を子供たちに感じてほしい。ある一つの言葉や語りが体中を巡るような感覚を味わってほしい。そのように願っています。それは決して正解を届けるということではなく、子供自身が全く想像していない見方・考え方に気づかせてあげることなのかもしれません。

 例えば、日々の子供(保護者)との関わりに目を向けてみます。我々教師は、何かの相談を受けた際、その内容を自分の経験をもとに分類・整理しようとする傾向があります。どうやら、効率的な「答え」を伝えようとすることが多いように思います。経験があることは強みではありますが、相談する側はそのような「経験からの分析」を求めているのではなく、自分の知らない自分に気づいてほしい(気づかせてほしい)のかもしれません。

 私たちは、目の前の子供たちの世界について無知だと認めるべきです。相手の話にもっと興味をもつべきです。「あなたの話はとても興味深い」「あなたの語りを大事にする」というメッセージを全身で届けるのです。そうすることではじめて「聴く」という行為が成り立つのではないでしょうか。

 授業の展開や「問い返し」の発問を考えたりすることは大事なことです。しかし、それ以上に、精一杯伝えようとしている子供たちの「声」を聴いてあげることも大切にしたいものです。その教師の姿こそが子供たちの「よりよく生きるための道徳性」を育む大きな要素になると考えています。

2021/11/23

2年生「およげない りすさん」(3)


 本教材では、りすを背中に乗せたかめたちの気持ちを考えさせる学習活動をよく見かけます。ただし、「みんなうれしかった」と発言させて授業を終えただけでは道徳性が高まったとは言えないかもしれません。

 そこで、本教材の学習内容である「みんなうれしかった」ということについての対話をさらに促すための手立てが必要になります。

手立て(1)役割演技

 考えられる手立てとして「役割演技」の活用があります。低学年の児童ですから、この場面になるまでに登場人物になりきって心情を想像している子も多いでしょう。ここでは「かめ」と「りす」の2名の演者を選定しますが、「りす」を授業者が演じることでゆさぶり発問を与えることもできます。

【役割演技例】

かめ役「りすさん、ぼくの背中に乗りなさいよ。」

りす役「ありがとう。すごく嬉しいよ。でも、なぜ今日は誘ってくれたの?昨日はダメだって言っていたのに」

 この演技では「みんなで遊んだ方が楽しい」という心情を深く理解させることをねらいます。「でも、僕は泳げないから、みんなだけで行った方が早く遊びにいけるよ」「なぜみんなもうれしそうな顔をしているの?」と問い返すこともできます。

 これらの役割演技は「発言させること」を目的とはしません。もし演者が発言できなければ、観客役の児童に「(演者は)なんて言いたかったと思う?」と尋ねてあげたらいいのです。大切なことは、役割演技を通して学級全体で価値のよさを考え(感じ)させることです。

手立て(2)場面を変える発問

『次の日、4人がお猿さんに木登りを誘われたら、りすさんはどうしたらいいかな』

 この発問は、本教材での学びを活用させることをねらいます。木登りに誘われたら、りすは木に登れますがかめやあひるは登れません。背中に乗せることも難しいです。では、どうしたらいいのか。様々な方法を考えようとするでしょう。そこにどのような心があるのか。大事なことは、その心に着目させてあげることです。

2021/11/21

2年生「およげない りすさん」(2)


 先日は「学習内容を明確にする」ということを述べました。今回は実際に授業の展開案を考えてみようと思います。

 例えば、「助け合う」に着目して、学習内容を「一人ぼっちの人に声をかけることのよさ」にしてみます。すると、本教材で大事にしたい活動は、その「よさ」を実感させることになります。その手立てとして、例えば役割演技などが考えられるでしょう。

 または、「みんなといっしょに遊ぶ喜び」を学習内容にするとします。低学年は「結果に着目」させることを重視しますので、授業の中で「みんなといっしょに遊ぶ喜び」を実感させる場面が必要になります。教材の中だと、りすを背中に乗せている時のみんなの気持ちを想像させることになります。

 このように、本教材で考えさせたい学習内容によって、中心的な活動(発問)場面は異なるべきだと、私は思っています。

 さて、この教材ではかめたちの心情として「楽しくない」「楽しい」という言葉が出てきます。このことについて、子供たちは本当に共感しているのでしょうか。「教材には楽しくないと書いているけれど、僕は楽しいと思うな」と感じている子はいないでしょうか。授業者(教材)が登場人物の感情を決めてしまうことについて、もう少し慎重に捉えてみる必要があるのではないでしょうか。

 なぜなら、「登場人物=児童」という自我関与が道徳科授業の前提としてあるのであれば、授業者が子供たちの感情を決めつけてしまうことになるからです。これでは、個々を大事にした道徳科授業になるはずがありません。

 そこで、「楽しいかどうか」についても、きちんと子供たちに考えさせてはどうでしょうか。手立てとして、「心情円盤」や「心のものさし」が有効になってくるでしょう。同じ「楽しい」という言葉を使っていても、その割合は大きく違う可能性があります。その「違い」こそ価値理解の「ずれ」であり、対話のきっかけになるものなのです

 初めから「楽しい」や「楽しくない」ということを決めてしまうと、「その時にどんなことを考えたでしょう」と尋ねたとしても出てくる意見はほぼ同じになってしまいます。確かに答えは整うけれど、多様な考えは決して生まれません。まさに、教師がレールを敷いている授業になってしまいます。

 しかし、「楽しいかどうか」を尋ねたとしたら、意見が分かれることが予想されます。もしどちらかに意見が偏った場合は、教師がその反対意見を発言してもいいのです(いわゆる補助発問)。そうすることで、「だって・・・」「でも・・・」という意見が子供たちから生まれます。これこそ、生活経験を想起して発言している姿であり、主体的に学ぼうとしている姿であると言えるのではないでしょうか。私は、そのような道徳科授業を求めていきたいと思っています。

2021/11/20

2年生「およげない りすさん」(1)


 低学年の定番教材「およげない りすさん」について、内容項目B「友情、信頼」として考えていきます(「公正、公平、社会正義」として扱われることもあります)。

 この教材を通して子供たちに何を考えさせるのか、いわゆる「学習内容」を明確にすることが授業づくりの第一歩です。学習指導要領解説での低学年学習内容は「友達と仲よくし、助け合うこと」と記載されています。

 まずは、文末の「こと」に着目してみましょう。この2字がついていることで、届けられているメッセージが異なります。この「〜すること」という文末は、「助け合うことが大事なんだよ。分かりましたか?」と教える授業を目指すのではなく、「助け合うことは、なぜ大事なんでしょうか。」「いつでも助け合うことはできますか。」というように、「〜することについて対話をさせる」ことが求められているという認識になります。

 ところで、「仲良くする」「助け合う」という言葉は低学年でも理解している言葉です。これを考えさせようとしても、おそらく学習内容の理解は曖昧なものとなってしまいます。本教材だからこそ考えさせられる「仲良くする」や「助け合う」を明確にしていく必要があるのです。また、学級の児童を想定した際に、どのような対話が望ましいのか。そのようなことを授業者はできる限り具体的にイメージをすることが必要です。

 例えば、学習内容が「一人ぼっちの人に声をかけることのよさ」になるかもしれませんし、「みんなといっしょに遊ぶ喜び」を実感させることかもしれません。

 この「学習内容を明確にする」ということが、いわゆる「教材分析」と呼ばれるものになるのではないかと私は思います。なぜなら、道徳科授業は「教材を教える」のではなく「教材で教える」からです。そして、学習内容に応じて教材の扱い方は異なるべきなのです。「道徳科授業に正解はない」と言われてるのは、そのようなことが関係しているからだと言えるでしょう。

 日々の道徳科授業と同様、授業づくりに正解はありませんが、よい授業の共通点はあります。それが「学習内容を明確にすること」です。そして、学習内容が明確になれば、そこから対話場面や発問を考えることができるようになるのです。