ヤーコ・セイックラ(2015)は『心配事があると、人は「対話」よりも「戦略」に走りがちです。悪い結果が出そうなときは人はそれを避けようとして、その状況をコントロールすべき、安易なやり方を選んでしまうのです』と述べています。
対話性には「余白」が必要になると先述しましたが、他人をコントロールしようとすればするほど、この余白が小さくなってしまいます。道徳科授業においても、「指導案通りに進めないといけない」「◯◯ということを引き出さないといけない」という思いが強すぎると、授業の余白が失われてしまいます。子供たちも「先生はぼくたちをコントロールしようとしている」と感じることでしょう。
道徳科授業は、ある特定の価値理解を教え込むものではありません。全員のゴールを一つに揃えるものでもありません。他者の道徳的諸価値に対する見方を鏡として、対話を通して自己の見方・考え方を見つめることが目的になります。そのためには、やはり対話のための「余白」が必要になるのです。子供たちをコントロールしようとするのではなく、いかに授業のなかで「余白」を生み出すか、そこが大事になるのでしょう。
《引用参考文献》
ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015, 医学書院)
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