人権教育と道徳教育の関連を考えた時、「多数派の意見」と「少数派の意見」のどちらに焦点を当てるかが大きなポイントになってきます。ある事象に対して「そんなことは当たり前だ」「それがふつうだ」という認識が多数ある場合、実はその「当たり前」「ふつう」に苦しんでいる人がいることに気づくことができるか。その「気づく力」を人権感覚ということができ、その感覚を育てていくことこそ人権教育の役割であると考えています。
道徳科の授業においても、多数派の論理に導くような授業ばかりが行われれば、少数派の児童生徒は不当に傷つけられることになりかねません。多くの人が「当たり前だ」と考える価値観について、「それは常に誰にでも当てはまるか」と問うことが必要になるということです。
藤川大祐(2018)も、著書の中で以下のように述べています。
(以下、抜粋)
「友人を作らなければならない」という価値観が脅迫観念となり、友人を作らず一人でいることを過剰に否定させてしまうかもしれません。教科書の読み物教材においては、友人はよきものであり、信頼できる友人を作るべきだという価値観が貫かれています。友人をつくりたいと思わない者、友人をつくりたくても方法がわからない者は考慮されていないように感じられてしまいます。
(以上)
この視点は、授業づくりにおいての中心発問や補助発問をつくる際の大きなヒントになるのではないでしょうか。
《引用参考文献》
藤川大祐『道徳授業の迷宮〜ゲーミフィケーションで脱出せよ〜』(2018,学事出版)
0 件のコメント:
コメントを投稿