2022/02/25

他者はコントロールできない


 先日、「対話主義は、方法論ではない。他者の他者性を承認し尊重し、なんとか他者を理解しようとする態度を意味するものである」ということを紹介しました。

 私たちは、他者を「なんとか変えてやろう」と思うあまり、つい「正しいアドバイス」を口にして他者の思考や行動をコントロールしようとしてしまいます。このことは、日々の生徒指導場面で、または道徳科授業での教師の言動でよくみられることです。

 しかし、どれほどその言動が善意にもとづいていようと、それは「他者性の軽視につながる」とヤーコ・セイラックとトム・アーンキルの共著(2015)のなかで述べられています。

 さて、トム・アーンキルは、専門家によるアドバイスが家族への批判ととられにくい方法を開発しました。言うなれば、教師による言葉がけが批判や押し付けにならない方法ということになります。道徳科授業における「発問」や「問い返し」にも使えそうだと思いませんか。

 トムたちが開発した方法は、例えば「専門家が両親に問題があると告げる代わりに、専門家自身の問題を打ち明ける」ということです。具体的には以下のように語りかけることになります。

(以下、引用参考文献より抜粋) 

「私は、あなたのお子さんがこういう特徴を持っていると考えていて、その支援のためにxやyの方法を試してきましたが、まだ迷っていて不安なんです。この不安がなくなるために協力してもらえませんか」

(以上)

 援助者(教師)が他者(児童生徒)に援助と協力を求める(思考や発言を促す)ことは、「こうなんだからこうすべき」と押しつけるよりも、対話のための余白をもたらすことになります。相手の考えを性急に変えるのではなく、むしろ自分のアドバイスの方向を変えるということです。相手への思いを自分自身の不安として打ち明け、相手に協力を要請するほうが、実りある対話につながるということになります。

 私たち教師にとって、児童生徒は「他者」です。残念ながら、他者を変えることは大変困難です。そうであれば、他者(児童生徒)を変えようとするのではなく、教師自身の聴き方や問い方を変える方が、教育や授業の目的に近づきやすくなるでしょう。道徳科授業として考えてみても、従来の道徳授業は教師の思いを押し付け過ぎていたのではないでしょうか。 まずは、子供たちの考えを教えてもらいましょう。その上で、教師の感じた思いを素直に打ち明け(相談して)、その思いについての子供たちの考えを尋ねてみる。そのような態度(いわゆる対話主義)こそ、これからの道徳科授業では求められるのかもしれません。


《引用参考文献》

ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015, 医学書院)

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