昨日は、トム・アンデルセンの著書『リフレクティングプロセス 会話における会話と会話』をもとに、道徳科授業における「教師の顔色を伺う」ということについて述べました。本日も、そのことを引き続き論じてみたいと思います。
「顔色を伺う」という行為は「悪」ではないということを昨日はお伝えしました。その行為は、子供たちが友達の意見をきちんと聞いているということの証になるのではないかと考えます。友達の発言をよく聞き、自分の意見と異なるから教師の顔色を伺うのです。自分の思考の枠を超えているから、教師の反応が気になるのです。
顔色を伺うことで、「ここまで自由に発言をしていいのだ」ということを確かめたい。小さな子供が遊びの中で叩いてくる行為と同じ意義があるのではないかと推察します。どこまでの発言が許されるかを確認しているということです。
ただし、これは教師に忖度をして「答えを探している」学級ではないということが条件となります。そのことは、日常的に子供たちの意見をどのように扱っているかで決まってきます。教師の求める意見をすぐに拾うような授業をしていると、忖度としての「顔色を伺う」という行為になるでしょう。その教室では、教師が「決める人」であり、教師の采配一つで授業が進んでいく。
しかし、日常的にさまざまな発言をよしとしている学級では、ある発言に対して「教師の意見を聞いてみたい」「教師の意見を聞いて自分の意見を再考したい」という意図での行為になります。このような学級では、教師も対話集団の一員として受け入れられているということになります。
《引用参考文献》
トム・アンデルセン著 鈴木浩二監訳『リフレクティングプロセス 会話における会話と会話』(金剛出版、2015)
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