2022/02/08

会話における小休止


 授業中の空白の時間。シーンとした雰囲気。その恐怖に破れ、授業者である私は矢継早に質問をしてしまう。そのような経験があります。自分の発問が届いていないのか。おかしなことを尋ねてしまったのか。そんなことを考えてしまい、慌ててしまうのです。

 トム・アンドルセンの著書の中に「会話における小休止」という表現がありました。上記の「シーンとした雰囲気」は、実はこの「小休止」になるのではないかと思っています。この「小休止」こそ、自己を見つめるための対話に必須であり、それと同時に、私たちが軽視している「授業者としての資質」ではないかと思いました。

(以下、著書より抜粋)

我々は「談話治療」に加わるとき、おそらく常に次のようなことを自問しなければならないだろう。私が行っているこの人との対話は、その人と私がそれぞれ十分な時間をかけて「内的」対話をすることができるぐらいゆっくりしたものであるのか

(以上)

 このことから、内的対話を促すには、発問や他者の声を聴いた後に十分な時間を確保することが必要だということを理解できます。

 また、トム・アンデルセンは、この小休止について『「私が彼の言うのを聞いて一番私の興味をひいたのは何か」を自問するために用いられることもある』とも述べています。そして、その興味を引いたものへの愛着を表現できる言葉をみつけさせるだけの時間が必要になるとも述べています。

 発問の後、すぐに子供たちから発言を求めるのではなく、反応をじっくりと待つ。シーンとした雰囲気は、子供たちが内的対話をしている証しであると認識する。自分の中にある言葉をみつようとしている子供たちの様子をじっと見守る。そうすると、ポツリ、ポツリと手が挙がりだす。手が挙がらなくても、目が合うようになってくる。その時にはじめて発言を求める。道徳科授業では、そのような授業者の姿勢が求められているのです。


《引用参考文献》

トム・アンデルセン著 鈴木浩二監訳『リフレクティングプロセス 会話における会話と会話』(金剛出版、2015)

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