2022/02/23

きれいごと道徳からの脱却


 山田貞二(2022)は『道徳教育(2022年3月号)』(明治図書)のなかで以下のように述べています。

(以下、抜粋)

 一人で素材研究をする際には、いつもとは違った自分になって教材を読み込みます。例えば、意図的に嫌な人になって教材を眺めてみると、今まで見えなかったことが見えてくることもあります。特に、クレーマー的な見方がお勧めです。どうしても教師は、教材を表面的にとらえがちです。善人的な思考の人が多いのが特徴です。細部までこだわってみていくと、不自然な点や納得のできない内容が必ず出てきます。指導書に頼りすぎると、こうした批判的な力がどんどんなくなってしまいます。つまり、うわべの「キレイごと道徳」を行ってしまいます。

(以上)

 道徳科授業を考えるときに、教師は「教えたいこと」に固執してしまいがちです。発問の順に考えていくと答えに辿り着くような展開を用意し、子供たちを「答え」に導こうとします。そして、教師の求める「答え」を児童が発言したならば、「とてもいい授業でした」と事後検討をしてしまいがちです。

 本当に、そうですか?子供たちは、その発問を考えたいと思っていましたか?そのゴール(児童の発言)は、授業前から分かっていたことではないですか?

 教材を読むとき、教師の視点ではなく、一人の大人として、または一人の子供になったつもりで読んでみてはどうでしょう。道徳科の教材には、現実と比べるとどうしても不自然な点があるものです。納得できない点もあったりします。その「不自然さ」や「どうしても納得できな展開」に気づくことができるか、そして、それを授業で扱おうとできるかどうか。そこに「深い学び」につながる道徳科授業のつくり方のヒントがあるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

『道徳教育2022年3月号』明治図書

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