2022/02/26

余白が対話を生む


 ヤーコ・セイックラ(2015)は『発言に際して、第一声は他者の発言に合わせること、たとえば相手の言葉を繰り返してみること』を推奨しています。例えば、「お父様が去ったとき、ひどくつらかったと、そうおっしゃいましたね?」のような発言です。

 授業研究などで、子供の意見を繰り返す(オウム返し)教師を批判的に捉える方もいます。セイックラのいう「第一声を他者の発言に合わせること」と、教師による「オウム返し」は、同意のものなのでしょうか。それとも、意味の異なる行為なのでしょうか。

 このことに関して、セイックラは他者の発言に合わせた後に「短い沈黙を差し挟むこと」が大事だと述べています。ただ発言を繰り返すのではなく、そこに明確な意図をもたせることになります。

 児童生徒が、自身の発した言葉を他者の口から聴く。その時に短い沈黙を差し挟む。そうすることで、それが自分の言いたいことであったかどうかの「余白」が生まれるのです。その「余白」があることで、児童生徒は初めて自分自身を見つめることができるのです。

 このように、対話には「余白」が必要となります。しかし、他人に「どうしても助言をしなければ」と感じているときほど、この余白が小さくなってしまいます。道徳科授業においても、「◯◯という発言を引き出したい」「◯◯を教えたい」という思いが強すぎると、教師にも子供たちにも余白が失われます。そのような授業では、残念ながら対話は生まれないでしょう。

 「児童生徒の発言を繰り返す」という行為が大事なのではなく、第一声を他者の発言に合わせることで、「自身の発言を見直すための余白を生む」ことを大事にしたいものです。


《引用参考文献》

ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015,医学書院)

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