「教師の顔色を伺う」という行為は善でも悪でもなく、子供たちの素直な反応であり、自分の意見と友達の意見の違いに気づき、その違和感や不安が生まれた結果、教師を見るという行為になる。それゆえ、子供たちに生じた違和感を自覚させてあげること、そしてその違和感から全体の対話につなげてあげたい。このようなことを前述しました。
しかし、当然のことかもしれませんが、ずっと前(教師)だけを見て時間が過ぎていくような授業や、いわゆる「正解だけを求める」ような授業には、上記の論は当てはまりません。「違和感や不安を解消させるため」と「正解を探すため」は大きく異なることをお伝えしておきます。
さて、ここで大切になるのは、「発問」です。先日紹介をした、トム・アンデルセンの著書『リフレクティングプロセス 会話における会話と会話』の中に以下のような記載がありました。
(以下、一部抜粋)
人はいつも同じ状況に置かれたままでいると、同じ状態に留まりやすい。何かいつもと異なる状況に出くわしたならば、その状況は変化を引き起こす可能性がある。出くわす新しい状況がいつもとあまりに違いすぎると、人は刺激されないように殻にとじこもってしまう。それゆえ、援助者であると思われている我々が努力しなければならないことは、我々が参加しているこれらの人々との会話では、いつもとは違っていても違いすぎない何かを提供することである。これは我々が出くわす状況、会話が含有するテーマや争点、会話の進み方や形式を構成するルールである。
(以上)
発問とは「問いを持たせるもの」です。「いつもとは違っていても違いすぎない何か」を子供たちに提供することで変化を引き起こすきっかけとするものが「発問」なのです。この「発問」によって子供たちの中に問いが生まれた瞬間こそ、実は「教師の顔色を伺う」という瞬間なのではないでしょうか。
なお、繰り返しになりますが、いわゆる「正解だけを求める」ような授業では上記の論は当てはまらないことを申し上げておきます。
《引用参考文献》
トム・アンデルセン著 鈴木浩二監訳『リフレクティングプロセス 会話における会話と会話』(金剛出版、2015)
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