対話を通して一つの解を求めるべきなのか。この問いに対して、ヤーコ・セイラック(2015)は、『対話には必ずしも全員の合意は必要ありませんし、合意が得られないことが対話の妨げになるわけでもありません。また対話は決まった結論を目指すわけではありません。他者を無条件に受け入れるということは、他者の考え方をそのまま肯定することが前提ではないし、複数の考え方を融合・収束したり、妥協点を探ることでもありません。』と述べています。
私たちは、道徳科授業のなかで特定の価値理解を教えようとしていないでしょうか。子供たちに対話をしているふりをさせるけれど、教師が唯一の解をもっていないでしょうか
「納得解」や「共通解」という用語が広がっていますが、どうも「解」を定めないといけないという風潮も広がっているように危惧しています。
道徳科授業の目的は、他者という鏡をもとに自己をふり返り、生き方を考えることです。そうであれば、対話をするということは「他者という鏡を見る」ということになり、決してそこに写る自分を全員で一つに揃える必要はないのです。自分と他者との違いに気づき、その違いから改めて自分を考えることが大切になるのです。
また、ミハイル・バフチンは(1995)は、「生きていくうえでは『出来事の見方が絶対的に対立してしまう』ことを認めざるをえない」とも指摘します。そのうえで、「聞いてもらうこと」がすでに対話的な関係そのものであるとしています。「対話性」は方法論ではなく、他者から無心に聞いてもらい、応答してもらうことで力づけられた経験から生まれる、「なんとか他者を理解しようとする態度」だということです。
道徳科の授業に議論や説得は相応しくありません。対話性のある学級のなかでこそ、子供たちは安心して自分の生き方を考えられるのです。
《引用参考文献》
ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015, 医学書院)
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