「子供たちの本音を引き出す」。そのような声が道徳科授業の事後(事前)検討でよく聞こえてきます。ところで、教師の求める「子供たちの本音」は真なるものなのでしょうか。「本音」=「教師が引き出したい言葉」となってはいないでしょうか。
そもそも、なぜその発言を本音だと判断できるのか。例えば、普段から言動の荒い子の心の内は、もしかしたら大変弱々しいものかもしれません。そう考えると、「教師の求める本音」=「教師によるレッテル」になってしまうことはないかと、私は危惧します。「あの子はいつもそうだから」「あの子がそんなことをいうのは納得できない」などの教師の一面的な見方によるレッテルが、教師の求める「子供たちの本音」となり、教師によって無理に引き出されてしまうという構図が成り立ってしまうのです。
子供の発言そのものが、その子を作っています。大人から見たら建前でも、その子からすれば真実なのです。そうであれば、教師の役割はその発言に興味をもち、その発言についての対話につなげることなのです。
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