高橋規子(2008)は、ナラティブ・セラピーが他のセラピーと大きく異なる点は、「ひと」というものごとの捉え方にあるとしています。ナラティブ・セラピーでは、「ひとは語りでできている」、より詳細に記述すれば、「語りを通じてひとは構成され、対話の中で構成され続ける存在である」ということです。
ひとが語りでできているのであれば、自分をストーリー化(自己を物語る)という体験を通して、生まれてくる言葉をつなげる(組織化)するという行為そのものが治療的であるということになります。つまり、語るという行為は、経験を組織化するプロセスにおいて、ひとの自己組織化を促進するということです。
高橋の論から道徳科授業を考えてみましょう。道徳科授業では、「問い」を通して、または他者を姿見として、子供たちに自己をふり返らせ、自らの生き方を考えさせることをねらいます。そして、「自己をふり返る」ということは、自己の内面を言語化して整理・組織化するということであり、「自己を物語る(ナラティブする)」という治療的行為になります。
それは、言葉や文章として外に発することもあれば、心の中でつぶやくということもあります。例えば、葛藤場面での対話の際に、「もし自分なら・・・」「そういえば、あの時・・・」というように過去の記憶を整理し、そこから生まれてくる言葉を必死につなごうとする姿を見かけます。また、終末のふり返りの場面で自分の経験や思いを書き綴る子もいます。そのような行為こそ自己を物語っているのであり、道徳科授業で大事にしたい行為なのです。
授業を参観すると活発な議論に目が行きがちですが、その議論を通して子供たちがどのように自己を物語っているか、そこに着目したいものです。
《引用参考文献》
森岡正芳『ナラティブと心理療法』(2008,金剛出版)
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