「聞いてもらえることがすでに対話である」と、ヤーコ・セイラック(2105)は論じています。ここに、私たちが教室でおこなっている「聞く指導」の全てが込められていると感じました。
さて、セイラックは以下のようにも述べています。
(以下、抜粋)
そこにある種の「駆け引き」を感じたとしたら、つまり彼のことを親身に考えているかのように見せかけつつ、彼を説得することを密かに狙っている様子を感じとったとしたら、彼はあなたの意図を声のトーン・表情・身振りなどからただちに見抜き、ふたたび心を閉ざしてしまうでしょう。
(以上)
たとえば、生徒指導の場面において、子供たちの話を教師はよく聞こうとします。しかし、その行為が本当に対話としての「聞く」になっているでしょうか。聞いているふりをしているだけで、指導のタイミングを常に狙っていないでしょうか。
道徳科授業においても、子供たちからできる限り多様な意見を聞こうとします。しかし、実は教師が事前に正解をもっており、その正解に近づく意見ばかりを受け入れたりしていないでしょうか。
多様な意見を聞くということは、目の前の子供たち一人ひとりを尊重することにつながります。そのような教室だからこそ、子供たちは安心して意見を言うことができるようになります。自分の意見を聞いてもらえるという実感をもつことが、他者の意見を聞くという対話性を養うことにつながります。
まず、教師が子供たちの考えを「聞く」ということを大事にしていきたいものです。
《引用参考文献》
ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015, 医学書院)
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