「えっ!求めている発言と全く違う・・・。どうしよう」という経験はないでしょうか。ねらいと異なる発言が子供たちから出てきた時、どのように応対すればよいのでしょうか。
まず大事にしたいことは、その意見はその子自身の実体験をもとに語られている場合が多いという認識をもつことです。物語の出来事を自分ごととして捉え、過去をふり返りながら語っているということです。そうであれば、その「ねらいと異なる意見」を大事にするということは、その子の過去の経験を教師が受容し、「あなたは大事な存在だよ」と認めることになると私は考えています。そして、そのような意見にこそ「学びを深める見方・考え方」が含まれていることも、経験上感じています(単純に聞き間違えなどの場合もありますので、そこは教師の見取りが求められます)。
園田(2021)も、以下のように述べています。
(以下、著書より一部抜粋)
『はしの上のおおかみ』と言う定番の読み物がある。教師はオオカミが変容した理由を子ども達に問うた。クマに親切にしてもらったから、と言う意見が続く。そのときA子が「ウサギさん、かわいそう」と一言。教師は、「質問をよく聞いてね」と返した。以前は、「こら、こら」とにらみつけ、怒鳴ってきたオオカミだ。突然抱っこされるなんて、ウサギは恐怖心が募るばかり。A子の気持ちが痛いほど想像できる。「A子さんは、そのことがずっと気になっていたんだ。みんなは、どう?」こう返せば、様々な意見が出たことだろう。核心に迫る授業はそこから始まるのではないかと思う。「これまでのこと、ごめんね」その一言もなく、オオカミはウサギを抱き上げた。クマに親切にしてもらったからといって、急に同じ行為を受け継ぐなんて、こんなオオカミを信用できない。そのような感性を持つ子どもはA子だけではないはず。
ところが、先生は「質問をよく聴いてね」。つまり、「これからはボール球を投げないでね」と言うわけだ。A子からすれば、「先生。私の意見をよく聞いてね」と言いたいところだろう。授業者が特定のストライクゾーンを決め込み、そこから外れる意見はすべてボール球。これでは意欲を喪失する子どもも出てくるのではないか。
しかし、そのような分かり切ったことがなぜできないのだろうか。一つは、時間に追われている中で、どの意見も受け入れていると「授業がまとまらなくなる」という恐れだ。それがストライクゾーンを狭め、結果的に意見の排除、思考の均一化をもたらしてしまうのだろう。
(以上)
園田のいう「ボール球」の発言を取り上げると、授業の流れが不確実になるおそれがあることは事実です。授業に混沌が生まれ、子供たちも「えっ!どう考えたらいいのだろう」と驚きや不安を感じるかもしれません。しかし、その混沌の中でこそ、「本気で考えたい」「自分の考えを分かってほしい」という思いが生まれてくるのではないでしょうか。主体的・対話的に学びには、まさに「ボール球」の意見を教師が大事にする態度が必要になるのです。
《引用参考文献》園田雅治『「つながり」を育み授業を愉しむ』(2021,解放者出版)
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