2022/06/30

内容項目「C向上心、個性の伸長」〜教材『「自分」ってなんだろう』〜


 日本文教出版の中学2年の教材に『「自分」ってなんだろう』という教材があります。内容項目は「C向上心、個性の伸長」です。

 さて、指導要領解説を読むと、本内容項目のページに以下のような記載があります。


  上記の記載から、授業展開を考えてみます。


 このように、指導要領解説を読むことで道徳科授業の学習展開を考えることができるのです。

2022/06/29

道徳科授業と人権教育〜およげないりすさん〜


 道徳科の教科書教材を人権教育の授業として扱うことがあります。人権課題そのものを扱っている教材もあれば、そうではないものもあります。どちらにしても、基本的には道徳科のねらいをもとに授業を構成します。

 例えば、低学年教材「およげないりすさん」での人権教育の観点を考えてみます。リスは、何も悪いことをしていないのに、ただ遊びたいだけなのに、泳げないということを理由にいっしょに遊ぶことができませんでした。

 このリスを、例えば「障害のある人」に置き換えてみてはどうでしょうか。言葉の通じない「外国の人」として捉えてみてはどうでしょうか。まさに、様々な人権課題が抱える現状をそのまま感じることはできないでしょうか。「集団の中の不合理」を感じさせられる教材といえます。

 低学年の授業の中で、それらの人権課題に置き換える必要はないでしょう。しかし、教師がその観点をもって授業をすることで、不合理を感じているリスの悲しみを、自らの差別意識を反省したカメたちの変容を、子ども達にしっかりと理解させることができるのではないでしょうか。

 低学年の段階から、人権教育で大事になる「様々な人権課題を解消しようとする心」を育てることが求められています。教師のその意識をもつことで、日々の道徳科授業の中でその心を育てていくことができるのです。

                          (筆者作成)

2022/06/28

子どもの問いから構想するということ(2)


 永田(2022)は、『道徳教育 2022年7月号』の中で、下図のように「子どもの問題意識」に言及しています。

 

どの教材(内容項目)で授業をするにしても、その教材のどこに子ども達が問題意識を抱くのか、教師は常にそのことを考えておきたいものです。


《引用参考文献》

『道徳教育 2022年7月号』(2022,明治図書)

2022/06/27

授業前段階の「道徳性」の自覚 〜1年生「どうしてかな」(2)〜



 小学校1年生の教材「どうしてかな」(C規則の尊重)をもとに、「道徳性の自覚」について考えます。

 子供たちは授業前から「きまりは守らないといけない」ということを知っています。しかし、その理由について深く考えようとしたことはないかもしれません。そこで、「なぜきまりを守らないといけないの?」と尋ねてみるとどうなるでしょうか。おそらく「先生に叱られる」という意見が多いでしょう。または、「ケガをする(させてしまう)」という意見も予想できます。

 さて、「人にケガをさせるから(先生に怒られるから)、きまりを守らないといけないよね」という学びが、本当に道徳科授業でねらうべき内容なのでしょうか。道徳科の授業では「心情」に焦点をあてることで道徳的諸価値のよさを実感させることが重要だと私は思っています。

 そこで、例えば本教材では、廊下を走っている中心人物の横に描かれているうさぎの気持ちを想像させます(図1)。


(図1)うさぎの視点を通して自分の道徳性を自覚させる。

 

うさぎの気持ちを想像させると、1年生の言葉の力では「嫌な気持ち」のような発言が出てくるでしょう。そこで、その「嫌な気持ち」を学級全体で説明をさせてみます。その際、言葉での説明が難しければ、どれぐらい嫌な気持ちかをイラスト(顔の表情)で表現させることも考えられます。

 また、「掃除をしないことは、ずるい」という発言が出てくるようであれば、その「ずるい」という言葉に着目します(図2)。なぜなら、その「ずるい」と感じる心が、その児童のもつ道徳性と考えられるからです。


             (図2)児童の発言をもとに自己の道徳性を自覚させる

 児童の発言に問い返し、それを全体に広げる。児童は登場人物の視点で物事を考えていますが、その発言の中には自己の道徳性が込められているのです。また、同じ「悲しい気持ち」「嬉しい気持ち」という言葉だとしても、児童一人一人の尺度は異なるはずです。だからこそ、教師の発問や問い返しを通して、発言の中にある「気持ち」に目を向けさせ、自らの発言を分析させる(気持ちを自覚させる)ことが重要になると考えます。この対話を通しての「発言の分析」という行為こそ、自らの道徳性の自覚につながるのではないでしょうか。







2022/06/26

補充・深化・統合 〜1年生「どうしてかな」〜


  

 小学校1年生の教材「どうしてかな」(C規則の尊重)について考えてみます。この教材では、「教室でボール投げをしている」「廊下を走っている」「掃除の時間に鉄棒で遊んでいる」という3つの場面をもとに「きまりを守ることの大切さ」について考える構成になっています。

 しかし、子どもたちは本教材を学習する前から「教室でボール投げをしてはいけない」「廊下を走ってはいけない」ということを知っているのではないでしょうか。そうであれば、この教材を扱う意義はどこにあるのでしょう。

 さて、道徳科授業は学校教育の全教育課程で行われる道徳教育の「補充・深化・統合」という役割をもっています。

 本教材でいうと、「廊下を走ってはいけない」ということについて「なぜ?」と考えたり、その行為によって生まれる感情(怪我をして悲しい、ケガをさせて心苦しい)を想像させたりすることで、「きまりを守る」ことのよさや大切さを理解させます。このような学習活動が「深化」になります。

 また、例えば日本文教出版の1年生の教科書では、他教材「休み時間」(A節度、節制)で廊下を走っている場面が扱われています。また、「120点のそうじ」(C勤労、公共の精神)という教材で、掃除をがんばることのよさについて考えます。本教材「どうしてかな」の学習の際にそれらの教材での学びをつなげることで、複数の内容項目の学習を「統合」することもできます。

 教材研究をする際、その教材が「補充」を目的とするのか、「深化」をねらうのか、それとも統合の役割をもつのか、そのような視点も大事にしてはどうでしょうか。


                               (筆者作成)

2022/06/22

価値の一般化


 道徳科授業における「価値の一般化」は、ある特定の発問(問い方)をいうのではなく、下図のような授業の中の一連の流れのことを呼びます。


(参考文献をもとに筆者作成)


《引用参考文献》

現代道徳教育研究会編『道徳教育の授業理論 十大主張とその展開』(1981,明示図書)

2022/06/21

教材の中の人物も生きているということ

 資料作家の立石喜男は、『道徳教育2022年7月号』(明治図書)の記事で以下のように述べています。

(以下、一部抜粋)

「かぼちゃのつる」を例に考える。教師は、はなから「かぼちゃは我儘」と決めつけるきらいがある。だから周りから「かぼちゃはズルい」「勝手気儘」の声で埋め尽くされよう。だが、教師がそれに賛同しなかったらどうだろう。例えば、「かぼちゃって、そんなに悪いの?」と返してみる。(中略)従来の展開では「かぼちゃのつる」を制裁受託の定番資料に格下げていた。それでは教師の負け。生きているからこそかぼちゃもトラブルを抱え、精一杯生きようとする本来の姿を多くの子に掴ませたい

(以上)

 上記は、教師による教材分析の大きなヒントになると感じています。我々はどうも教材を一面的な見方で分析し、その一面的な理解を正しいものとして子供たちに考えさせようとしているように感じられます。教材の中の人物たちも精一杯生きようとしている大切な存在であるという認識をもってみると、分析の視点が広がるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

『道徳教育 2022年7月号』(2022,明治図書)


2022/06/20

学級の実態から授業を考える


 指導案に学級の児童生徒の実態を書きますが、なぜその記載が必要なのでしょうか。また、どのようなことを書けばいいのでしょうか。

 ここで一つの提案をします。指導案に記載されている「学級の実態」の一文一文から矢印を引っ張り、本時の授業展開の発問や指導上の留意点につなげてみてください。それがきちんとつながるのであれば、指導案に記載されている「学級の実態」に大きな意味があります。矢印がつながらないのであれば、指導案のページを埋めるために「学級の実態」を書いていることになってしまいます。

 同じ内容項目、同じ教材であっても、授業展開や発問は異なります。それは、学級の実態に合わせて変わるべきものだからです。学級担任として、どのような課題が学級にあるのか、そして、子供たちが抱く問題意識はどのようなものなのか、それを明確にするのが「児童生徒の実態」の記載になるのです。

2022/06/18

「ねらい」から考える授業構想


 道徳科授業を考える際、どのような「ねらい」を設定するかで授業構想は異なります。1年生教材「はしのうえのおおかみ」を例にして考えてみます。

 例えば、「いじわるをした時より、親切にした時の方がうれしくなる」という気づきをねらいに設定した授業の構想は(図1)のようになります。


     (図1)「いじわるをした時より、親切にした時の方がうれしくなる」の授業構想


 次に、「親切な行為は、親切にされた相手も親切にした自分もうれしくなる」という気づきをねらいに設定した授業の構想は(図2)のようになります。


(図2)「親切をされた相手も、親切にした自分もうれしくなる」の授業構想案


 このように、ねらいによって授業の構想は異なります。ですから、授業を考える際は「ねらい」を明確にすることがとても重要になるのです。

2022/06/16

子どもの問いから構想するということ

 永田(2022)によると、現在の学習指導要領解説では、小・中学校ともに「問題意識」という用語が頻出していているということです(子どもの立場で用いられるのは9箇所ずつで、平成20年の解説書と比較しても急増)。

 例えば、このように書かれています。

児童がどのような問題意識をもって学習に臨み、ねらいとする道徳的価値を理解し、自己を見つめ、多様な感じ方や考え方によって学び合うことができるのかを具体的に予想しながら(中略)展開を構想する。」

 永田はこの記述をきわめて重要だとしています。それは、授業は子どもの問題意識をふまえた追求であり、教師の教えたい順番や「問い」の順に授業を作るのではなく、子どもの考えたい「問い」の流れに即して全体を構想すべきことを強く示唆しているからだと述べています。

 そうであれば、日々の授業の中で、教材との出会い方がこれまで以上に重要になるのではないでしょうか。そして、教材と出会った後の、つぶやき。子供たちが現在もっている価値観や経験と、教材に隠された価値観や理想とのずれによって生まれるつぶやきを丁寧に受け取ることが、子供たちの問題意識につながるのだと考えます。


《引用参考文献》

『道徳教育 2022年7月号』(2022,明治図書)

2022/06/15

「反応」という言葉からの決別


 『道徳教育』7月号(2022年)の中で、東京学芸大学の永田繁雄は『子どもの学びは、子供が「問い」をつくることから始まる』と論じています。そのうえで、学びは子どもの問いの連続でもあり、その効果的な流れが生まれるように、私たち教師は、やはり「問い」=「発問」を軸にしてかかわっていくことが重要であるとしています。

 さて、本誌の中で永田は、指導案を作成する際の「児童(生徒)の反応」というところに着目し、今までは「子どもの問い」に対する着眼が不十分であったと述べています。「反応」の対義語は「刺激」であり、教師の発問という刺激がなければ「反応」は引き起こされないからです。「児童(生徒)の反応」という言葉は受動的な学習観を明言しているということです。このことから、本論の最後には『私たちは、今こそ「反応」という言葉から可能な限り決別していかなくてはならない』と述べています。

 当たり前に使っていた「予想される児童の反応(発言)」という指導案の記載に、「授業(発問)は教師が作るもの」という隠れたメッセージが込められていることに私は気づいていませんでしたので、大変納得させられるものでした。


《引用参考文献》

『道徳教育 2022年7月号』(2022,明治図書)


2022/06/14

ワークシートの活用について


 

 教科書についている道徳ノートや自作のワークシートを活用して、中心発問の場面などで「自分の考えを書く」活動を取り入れている方も多いと思います。今回は、この「書く」という学習活動について考えてみます。

(学習指導要領解説をもとに筆者作成)


 上図は、授業の中で「書く」活動を取り入れる際のメリット・デメリットをまとめたものです。「書く」時間を全体で確保することで、全員の授業参加を保障できます。また、「書く」ことに集中することでゆっくりと自分を見つめることができるので、道徳科授業の目的を達成しやすくなるといえます。

 デメリットとしては、対話が成立している学級では、その思考の流れを切ってしまうおそれがあります。また、書くことに負担を感じている子もいるかもしれません。

 「何のために書くのか」、そのことをきちんと意識したうえで、学級の実態に合わせて「書く」活動を取り入れていきたいところです。

2022/06/13

内容項目「相互理解、寛容」で大事にしたいこと(2)


 内容項目「相互理解、寛容」について考えていきます。先日は「自分の考えや意見を相手に伝えること」の大切さについて述べました。それに加えて、「相互理解、寛容」では「自分とは異なる意見や立場も広い心で受け止める」ことについて考えることが求められます。

 では、なぜ「自分とは異なる意見や立場も広い心で受け止める」ことが求められるのでしょうか。学習指導要領解説を読むと、以下の図のように考えられます。


(学習指導要領解説をもとに筆者作成)


 このように、内容項目「相互理解、寛容」では、「自分とは異なる意見や立場も広い心で受け止める」ことについて考え対話をすることを通して、相手の意見や考えを受け入れることで「自分を高められることに気づく」「よい人間関係を築けることを理解する」ことを授業のねらいにすることになります。

 ただし、一つの教材でこの両者を扱うことは難しいかもしれません。複数教材を扱うなど、実態に合わせて対応していくことが期待されているといえます。

2022/06/12

内容項目「相互理解、寛容」で大事にしたいこと


 内容項目「相互理解、寛容」の授業づくりについて考えてみます。まず、発達段階ごとの内容を縦に並べて見比べてみましょう(下図参照)

(学習指導要領解説をもとに筆者作成)


 発達段階ごとの「同じ」と「違い」が見えてきます。どの発達段階にも共通して求められているのが「自分の考えや意見を相手に伝える」ということです。「相互理解、寛容」の授業では、どうしても「相手を受け入れる」に重きを置いてしまいがちですが、それと同じぐらい「相手に伝える」ということも重要になり、その大切さを全学年できちんと考えさせていくことが求められているのです。

 このように、「相互理解、寛容」の授業づくりの際には、「自分の考えや意見を伝える」ことを意識した発問や展開(活動)を取り入れてみるのもどうでしょうか。

2022/06/11

子どもの意見を聞くということ

「えっ!求めている発言と全く違う・・・。どうしよう」という経験はないでしょうか。ねらいと異なる発言が子供たちから出てきた時、どのように応対すればよいのでしょうか。

 まず大事にしたいことは、その意見はその子自身の実体験をもとに語られている場合が多いという認識をもつことです。物語の出来事を自分ごととして捉え、過去をふり返りながら語っているということです。そうであれば、その「ねらいと異なる意見」を大事にするということは、その子の過去の経験を教師が受容し、「あなたは大事な存在だよ」と認めることになると私は考えています。そして、そのような意見にこそ「学びを深める見方・考え方」が含まれていることも、経験上感じています(単純に聞き間違えなどの場合もありますので、そこは教師の見取りが求められます)。 

 園田(2021)も、以下のように述べています。

(以下、著書より一部抜粋)

 『はしの上のおおかみ』と言う定番の読み物がある。教師はオオカミが変容した理由を子ども達に問うた。クマに親切にしてもらったから、と言う意見が続く。そのときA子が「ウサギさん、かわいそう」と一言。教師は、「質問をよく聞いてね」と返した。以前は、「こら、こら」とにらみつけ、怒鳴ってきたオオカミだ。突然抱っこされるなんて、ウサギは恐怖心が募るばかり。A子の気持ちが痛いほど想像できる。「A子さんは、そのことがずっと気になっていたんだ。みんなは、どう?」こう返せば、様々な意見が出たことだろう。核心に迫る授業はそこから始まるのではないかと思う。「これまでのこと、ごめんね」その一言もなく、オオカミはウサギを抱き上げた。クマに親切にしてもらったからといって、急に同じ行為を受け継ぐなんて、こんなオオカミを信用できない。そのような感性を持つ子どもはA子だけではないはず。

ところが、先生は「質問をよく聴いてね」。つまり、「これからはボール球を投げないでね」と言うわけだ。A子からすれば、「先生。私の意見をよく聞いてね」と言いたいところだろう。授業者が特定のストライクゾーンを決め込み、そこから外れる意見はすべてボール球。これでは意欲を喪失する子どもも出てくるのではないか。

しかし、そのような分かり切ったことがなぜできないのだろうか。一つは、時間に追われている中で、どの意見も受け入れていると「授業がまとまらなくなる」という恐れだ。それがストライクゾーンを狭め、結果的に意見の排除、思考の均一化をもたらしてしまうのだろう。

(以上)

 園田のいう「ボール球」の発言を取り上げると、授業の流れが不確実になるおそれがあることは事実です。授業に混沌が生まれ、子供たちも「えっ!どう考えたらいいのだろう」と驚きや不安を感じるかもしれません。しかし、その混沌の中でこそ、「本気で考えたい」「自分の考えを分かってほしい」という思いが生まれてくるのではないでしょうか。主体的・対話的に学びには、まさに「ボール球」の意見を教師が大事にする態度が必要になるのです。


《引用参考文献》園田雅治『「つながり」を育み授業を愉しむ』(2021,解放者出版)

2022/06/09

注意すべき発問


 元教科調査官の瀬戸(1986)は、道徳科授業における「注意すべき発問」の一つを以下のように説明しています。

(以下、著書より抜粋)

導入から終末まで、計画的に発問はなされるが、どの段階であっても、精選して、質の高いものでなければならない。次のような発問は、ぜひ気をつけたいものである。

①読解力に影響される発問

「なぜA君は、優しくしたのでしょう」というような発問を投げかけたとき、その答えは文中にあるというようなことである。つまり、読解で答えられるのであり、読解力のある子どもが活躍する授業になってしまう。このような発問では、自分をふり返ったり、自分のことを語ったりすることはできない。文中にあることばではなく、行間を読み取らせるような発問こそ大切である。

(以上)

 教材を読めば書いているようなこと、すぐに分かってしまうようなことを問うことは、道徳科授業ではあまり意味のない発問であるということです。


《参考引用文献》

瀬戸真『新道徳教育実践講座1 自己をみつめる 道徳の時間における価値の主体的自覚』(1986,教育開発研究所)

2022/06/08

結果と動機

 道徳科授業では、行動の「結果」ではなく、その動機(思い)に着目させることが重視されます。

(以下、抜粋)

一般に、行為という現象を見て、それが良い悪いと考えがちである。しかし、よく考えてみると、それは、ほとんどの場合、一連の行為の結果であることが多い。結果に対しては当然、動機がある。行為がいかに良さそうに見えても、そのときの動機が悪ければ、その一連の行為は道徳的であるとはいえない。また、いかに動機が良くても結果が悪ければ、その一連の行為は道徳的には必ずしも歓迎されないことが多い。ただし、道徳の視点から一連の行為を見るときには、結果よりも動機を重視しようとするのは当然のことである。

(以上)

 しかし、例えば小学校低学年では行為の動機に着目させることは難しいものです。そのようなときは、上記とは別に「結果に着目」させることで、その結果を生み出した動機(思い)のよさを理解させることが大事になります。低学年のポイントは「結果に着目」なのです。


《参考引用文献》

瀬戸真『新道徳教育実践講座1 自己をみつめる 道徳の時間における価値の主体的自覚』(1986,教育開発研究所)