先日(2022年2月10日参照)、トム・アンデルセンの著書『リフレクティングプロセス 会話における会話と会話』の以下の箇所を紹介しました。
(以下、抜粋)
人々が関わっているのは「外部の」問題点ではなく、その問題点に関する彼らの理解である、というアイデアに基づいている。この極めて重要な一文から論理的に導かれるものは、我々にはその問題を叙述することも説明することもできないが、彼らの叙述と説明をただ叙述し、(彼らの叙述と説明に関する)我々の叙述に試験的な説明を与えることしかできないということである。それゆえ、「それは何でしたか?」「それはどうでしたか?」と質問する代わりに、「何を見たんですか?」「何を体験なさったのですか?」「何だと思われましたか?」「どう理解されましたか?」などと質問するのである。
(以上)
この記述について、前回同様に道徳科の授業づくりと関連させて考えてみます。
2年生の教材に「くりのみ」(日本文教出版)があります。内容項目は「親切、思いやり」です。
【「くりのみ」の概要】
北風の吹いている原っぱで食べ物を探していたきつねとうさぎ。きつねは、見つけたどんぐりを腹いっぱいに食べ、残りを落ち葉で隠しました。帰りにうさぎに出会いましたが、きつねは「何にも見つかりません」と嘘をつきます。すると、うさぎはしばらく考えたあと、やっと見つけた栗の実の一つをきつねに手渡します。出された栗の実を見て、きつねが涙を流す。
さて、この教材の中で、きつねが栗の実を受け取ったのかどうかという記述はありません。その栗の実を見ながら涙を流したという終わり方になります。
それでは、きつねは涙を流しながらどのような行動をとったのでしょうか。ここに、役割演技を取り入れることができそうです。実際にきつねの気持ちになって演じさせるのです。
さあ、演技が終わりました。教師は、子供たち(観客役)は、その演技をよく見ていました。きつねは、栗の実を受け取りましたか?もし、受け取ったのなら、きつねはどのように栗の実を受け取りましたか?片手ですか?両手ですか?
両手を受け取ったのなら、なぜでしょうか。きつねは、どんぐりをお腹いっぱいに食べたのではないでしょうか。もう、お腹は空いていません。それでも、両手で受け取ったのには、きっと理由がありそうです。
きつねは、その栗の実が、何か大切なものに見えたのでしょうか。ところで、あなたはきつねが何をもらっているように見えましたか。もらったものは栗の実ですが、それはもしかしたら何か意味のあるものかもしれませんね。あなた(きつね)には、何が見えたのですか。
このような流れこそ、トム・アンデルセンの「問題点に対する彼らの理解」というアイデアに沿った授業展開なのかもしれません。
ある事実があったとして、その事実は誰が見ても同じものになりますが、その事実に対する理解はそれぞれで異なります。その、理解の「異なり」にこそ、道徳科授業を深めるためのヒントがあるのではないでしょうか。