2022/02/28

対話と戦略


 ヤーコ・セイックラ(2015)は『心配事があると、人は「対話」よりも「戦略」に走りがちです。悪い結果が出そうなときは人はそれを避けようとして、その状況をコントロールすべき、安易なやり方を選んでしまうのです』と述べています。

 対話性には「余白」が必要になると先述しましたが、他人をコントロールしようとすればするほど、この余白が小さくなってしまいます。道徳科授業においても、「指導案通りに進めないといけない」「◯◯ということを引き出さないといけない」という思いが強すぎると、授業の余白が失われてしまいます。子供たちも「先生はぼくたちをコントロールしようとしている」と感じることでしょう。

 道徳科授業は、ある特定の価値理解を教え込むものではありません。全員のゴールを一つに揃えるものでもありません。他者の道徳的諸価値に対する見方を鏡として、対話を通して自己の見方・考え方を見つめることが目的になります。そのためには、やはり対話のための「余白」が必要になるのです。子供たちをコントロールしようとするのではなく、いかに授業のなかで「余白」を生み出すか、そこが大事になるのでしょう。


《引用参考文献》

ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015, 医学書院)

2022/02/26

余白が対話を生む


 ヤーコ・セイックラ(2015)は『発言に際して、第一声は他者の発言に合わせること、たとえば相手の言葉を繰り返してみること』を推奨しています。例えば、「お父様が去ったとき、ひどくつらかったと、そうおっしゃいましたね?」のような発言です。

 授業研究などで、子供の意見を繰り返す(オウム返し)教師を批判的に捉える方もいます。セイックラのいう「第一声を他者の発言に合わせること」と、教師による「オウム返し」は、同意のものなのでしょうか。それとも、意味の異なる行為なのでしょうか。

 このことに関して、セイックラは他者の発言に合わせた後に「短い沈黙を差し挟むこと」が大事だと述べています。ただ発言を繰り返すのではなく、そこに明確な意図をもたせることになります。

 児童生徒が、自身の発した言葉を他者の口から聴く。その時に短い沈黙を差し挟む。そうすることで、それが自分の言いたいことであったかどうかの「余白」が生まれるのです。その「余白」があることで、児童生徒は初めて自分自身を見つめることができるのです。

 このように、対話には「余白」が必要となります。しかし、他人に「どうしても助言をしなければ」と感じているときほど、この余白が小さくなってしまいます。道徳科授業においても、「◯◯という発言を引き出したい」「◯◯を教えたい」という思いが強すぎると、教師にも子供たちにも余白が失われます。そのような授業では、残念ながら対話は生まれないでしょう。

 「児童生徒の発言を繰り返す」という行為が大事なのではなく、第一声を他者の発言に合わせることで、「自身の発言を見直すための余白を生む」ことを大事にしたいものです。


《引用参考文献》

ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015,医学書院)

2022/02/25

他者はコントロールできない


 先日、「対話主義は、方法論ではない。他者の他者性を承認し尊重し、なんとか他者を理解しようとする態度を意味するものである」ということを紹介しました。

 私たちは、他者を「なんとか変えてやろう」と思うあまり、つい「正しいアドバイス」を口にして他者の思考や行動をコントロールしようとしてしまいます。このことは、日々の生徒指導場面で、または道徳科授業での教師の言動でよくみられることです。

 しかし、どれほどその言動が善意にもとづいていようと、それは「他者性の軽視につながる」とヤーコ・セイラックとトム・アーンキルの共著(2015)のなかで述べられています。

 さて、トム・アーンキルは、専門家によるアドバイスが家族への批判ととられにくい方法を開発しました。言うなれば、教師による言葉がけが批判や押し付けにならない方法ということになります。道徳科授業における「発問」や「問い返し」にも使えそうだと思いませんか。

 トムたちが開発した方法は、例えば「専門家が両親に問題があると告げる代わりに、専門家自身の問題を打ち明ける」ということです。具体的には以下のように語りかけることになります。

(以下、引用参考文献より抜粋) 

「私は、あなたのお子さんがこういう特徴を持っていると考えていて、その支援のためにxやyの方法を試してきましたが、まだ迷っていて不安なんです。この不安がなくなるために協力してもらえませんか」

(以上)

 援助者(教師)が他者(児童生徒)に援助と協力を求める(思考や発言を促す)ことは、「こうなんだからこうすべき」と押しつけるよりも、対話のための余白をもたらすことになります。相手の考えを性急に変えるのではなく、むしろ自分のアドバイスの方向を変えるということです。相手への思いを自分自身の不安として打ち明け、相手に協力を要請するほうが、実りある対話につながるということになります。

 私たち教師にとって、児童生徒は「他者」です。残念ながら、他者を変えることは大変困難です。そうであれば、他者(児童生徒)を変えようとするのではなく、教師自身の聴き方や問い方を変える方が、教育や授業の目的に近づきやすくなるでしょう。道徳科授業として考えてみても、従来の道徳授業は教師の思いを押し付け過ぎていたのではないでしょうか。 まずは、子供たちの考えを教えてもらいましょう。その上で、教師の感じた思いを素直に打ち明け(相談して)、その思いについての子供たちの考えを尋ねてみる。そのような態度(いわゆる対話主義)こそ、これからの道徳科授業では求められるのかもしれません。


《引用参考文献》

ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015, 医学書院)

2022/02/24

対話主義とは、態度である

 『対話主義は、方法論でもないし技術体系でもありません。それは他者の他者性を承認し尊重し、なんとかそこにたどりつこうとする態度を意味するのです。』

 これは、「オープンダイアローグ」を開発したユバスキュラ大学教授のヤーコ・セイックラの著書の一節です(「オープンダイアローグ」については過去記事を御覧ください)。

 この一節に、私は自身の授業観の見直しを迫られました。「活発な対話を促したい」と考えたとき、どのような「手法」があるのか、どのような「発問」をすればよいのか、そのようなことを第一に考えました。しかし、ヤーゴ・セイックラは「対話主義とは、態度である」と述べています。他者は他者であり、私は他者のことを理解することはできない。だからこそ、それを認め、なんとかわかろうとする「態度」こそ、対話に必要な要素であるということです。

 道徳科の授業において、子供たちの意見をわかったつもりになっている自分がいました。しかし、本当は子供たちのことを全く理解していなかったはずです。自分の都合のいいように発言を解釈し、「わかったつもり」になっていたのだと、この一節から気づかされました。  


《引用参考文献》

ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015, 医学書院)

2022/02/23

きれいごと道徳からの脱却


 山田貞二(2022)は『道徳教育(2022年3月号)』(明治図書)のなかで以下のように述べています。

(以下、抜粋)

 一人で素材研究をする際には、いつもとは違った自分になって教材を読み込みます。例えば、意図的に嫌な人になって教材を眺めてみると、今まで見えなかったことが見えてくることもあります。特に、クレーマー的な見方がお勧めです。どうしても教師は、教材を表面的にとらえがちです。善人的な思考の人が多いのが特徴です。細部までこだわってみていくと、不自然な点や納得のできない内容が必ず出てきます。指導書に頼りすぎると、こうした批判的な力がどんどんなくなってしまいます。つまり、うわべの「キレイごと道徳」を行ってしまいます。

(以上)

 道徳科授業を考えるときに、教師は「教えたいこと」に固執してしまいがちです。発問の順に考えていくと答えに辿り着くような展開を用意し、子供たちを「答え」に導こうとします。そして、教師の求める「答え」を児童が発言したならば、「とてもいい授業でした」と事後検討をしてしまいがちです。

 本当に、そうですか?子供たちは、その発問を考えたいと思っていましたか?そのゴール(児童の発言)は、授業前から分かっていたことではないですか?

 教材を読むとき、教師の視点ではなく、一人の大人として、または一人の子供になったつもりで読んでみてはどうでしょう。道徳科の教材には、現実と比べるとどうしても不自然な点があるものです。納得できない点もあったりします。その「不自然さ」や「どうしても納得できな展開」に気づくことができるか、そして、それを授業で扱おうとできるかどうか。そこに「深い学び」につながる道徳科授業のつくり方のヒントがあるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

『道徳教育2022年3月号』明治図書

2022/02/21

多数派の意見


 人権教育と道徳教育の関連を考えた時、「多数派の意見」と「少数派の意見」のどちらに焦点を当てるかが大きなポイントになってきます。ある事象に対して「そんなことは当たり前だ」「それがふつうだ」という認識が多数ある場合、実はその「当たり前」「ふつう」に苦しんでいる人がいることに気づくことができるか。その「気づく力」を人権感覚ということができ、その感覚を育てていくことこそ人権教育の役割であると考えています。

 道徳科の授業においても、多数派の論理に導くような授業ばかりが行われれば、少数派の児童生徒は不当に傷つけられることになりかねません。多くの人が「当たり前だ」と考える価値観について、「それは常に誰にでも当てはまるか」と問うことが必要になるということです。

 藤川大祐(2018)も、著書の中で以下のように述べています。

(以下、抜粋)

「友人を作らなければならない」という価値観が脅迫観念となり、友人を作らず一人でいることを過剰に否定させてしまうかもしれません。教科書の読み物教材においては、友人はよきものであり、信頼できる友人を作るべきだという価値観が貫かれています。友人をつくりたいと思わない者、友人をつくりたくても方法がわからない者は考慮されていないように感じられてしまいます。

(以上)

 この視点は、授業づくりにおいての中心発問や補助発問をつくる際の大きなヒントになるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

藤川大祐『道徳授業の迷宮〜ゲーミフィケーションで脱出せよ〜』(2018,学事出版)

2022/02/20

心のもちようか?社会のルールか?


 道徳教育と人権教育の関係について考えます。

 ある道徳的な問題が存在するとします。道徳科の授業では、その問題を引き起こしている「心」に焦点をあてます。その心に共感させたり自分ごととして考えさせることで、自分の心のあり方を見つめさせます。

 それに対して、人権教育では、その問題を引き起こしている社会的な決まりや常識に焦点をあてます。社会が抱える問題や多数派の考えのおかしさに気づかせることで、よりよい社会を作ろうとする行動を促します。

 同じ教材(問題)を扱っても、その目的は異なるのです。

2022/02/18

くりのみ


 先日(2022年2月10日参照)、トム・アンデルセンの著書『リフレクティングプロセス 会話における会話と会話』の以下の箇所を紹介しました。

(以下、抜粋)

人々が関わっているのは「外部の」問題点ではなく、その問題点に関する彼らの理解である、というアイデアに基づいている。この極めて重要な一文から論理的に導かれるものは、我々にはその問題を叙述することも説明することもできないが、彼らの叙述と説明をただ叙述し、(彼らの叙述と説明に関する)我々の叙述に試験的な説明を与えることしかできないということである。それゆえ、「それは何でしたか?」「それはどうでしたか?」と質問する代わりに、「何を見たんですか?」「何を体験なさったのですか?」「何だと思われましたか?」「どう理解されましたか?」などと質問するのである

(以上)

 この記述について、前回同様に道徳科の授業づくりと関連させて考えてみます。

 2年生の教材に「くりのみ」(日本文教出版)があります。内容項目は「親切、思いやり」です。


【「くりのみ」の概要】

北風の吹いている原っぱで食べ物を探していたきつねとうさぎ。きつねは、見つけたどんぐりを腹いっぱいに食べ、残りを落ち葉で隠しました。帰りにうさぎに出会いましたが、きつねは「何にも見つかりません」と嘘をつきます。すると、うさぎはしばらく考えたあと、やっと見つけた栗の実の一つをきつねに手渡します。出された栗の実を見て、きつねが涙を流す。


 さて、この教材の中で、きつねが栗の実を受け取ったのかどうかという記述はありません。その栗の実を見ながら涙を流したという終わり方になります。

 それでは、きつねは涙を流しながらどのような行動をとったのでしょうか。ここに、役割演技を取り入れることができそうです。実際にきつねの気持ちになって演じさせるのです。

 さあ、演技が終わりました。教師は、子供たち(観客役)は、その演技をよく見ていました。きつねは、栗の実を受け取りましたか?もし、受け取ったのなら、きつねはどのように栗の実を受け取りましたか?片手ですか?両手ですか?

 両手を受け取ったのなら、なぜでしょうか。きつねは、どんぐりをお腹いっぱいに食べたのではないでしょうか。もう、お腹は空いていません。それでも、両手で受け取ったのには、きっと理由がありそうです。

 きつねは、その栗の実が、何か大切なものに見えたのでしょうか。ところで、あなたはきつねが何をもらっているように見えましたか。もらったものは栗の実ですが、それはもしかしたら何か意味のあるものかもしれませんね。あなた(きつね)には、何が見えたのですか。

 このような流れこそ、トム・アンデルセンの「問題点に対する彼らの理解」というアイデアに沿った授業展開なのかもしれません。

 ある事実があったとして、その事実は誰が見ても同じものになりますが、その事実に対する理解はそれぞれで異なります。その、理解の「異なり」にこそ、道徳科授業を深めるためのヒントがあるのではないでしょうか。

2022/02/17

流行遅れ


 髙宮(2002)は、「功利主義(最大幸福原理)」の立場から、「目的」「結果・帰結」「成長・変化」の三つの視点で発問をすることを提案しています。

 この三つの視点について、教材「流行おくれ」(日本文教出版5年生)の授業づくりで説明をしているので、紹介します。


(以下は、髙宮の提案をもとに筆者が整理)

【発問1】

新しいジーンズを買ってほしいという願いは妥当なものか。

「節度」とは「適度」のことなので、「もっと望んでよい」から「望みすぎ」までを5段階の数直線に配置し、選択の理由を問う

【発問2】

どうして新しいジーンズを買ってもらいたいという欲をおさえられないのだろう。

「節制」とは、「欲望を抑える」という意味もある。この発問を通して、「節制」を妨げる「阻害条件」を理解させる

【発問3】

ジーンズを買ってもうらうと、どんないいことがある?

「結果・帰結」(成長・変化)の問いを活用し、メリット・デメリットを比較させる。

『メリット』

「流行についていける」「友達にかわいいと褒められる」「買いたい欲を満たせる」など

『デメリット』

「親のお金がなくなる」「また新しいものを買ってほしくなる」「無駄遣いするようになる」など

【発問4】

ジーンズを買ってもらうと、どんなよくないことがある?

【発問5】

節度を守り節制に心がけると、どんないいことがあるのか?

現在の視点だけでなく、「自己実現」という「目的」(未来)を考えさせる


《引用参考文献》

『道徳教育2022年3月号』明治図書

2022/02/16

徳は「中庸」である


 髙宮(2022)は、「アリストテレスは、徳を『超過』と『不足』の間にある『中庸(中間)』と定義しました」と述べています。たとえば、「勇気」という徳は、「向こう見ず(超過)」と「臆病(不足)」」の中庸になるということです。この「中庸」という徳の捉え方をもとに、髙宮氏は内容項目「節度、節制」の説明と授業展開の提案をしています。

(以下、枠内は髙宮氏の主張)

(以上)

 なるほど、過剰と過小の間を「徳」と見るのなら、登場人物の行為がどちらに近いのかを判断させてみるという学習活動が考えられます。おそらく、その判断の基準は子どもによって異なるので、そのずれから対話が生まれることが予想できます。

 また、髙宮氏は、「功利主義(最大幸福原理)」の立場から、三つの視点で発問をすることを提案しています。

 1、「目 的」  ・・・何のために節度を守るの?

 2、「結果・帰結」・・・節度を守るとどんないいことがあるの?

 3、「成長・変化」・・・節度のある生活をすると、将来どうなるの?

 このように尋ねることで、「節度、節制」の意義を自分との関わりで考えることにつながると述べています。自らの幸福(生き方)の自覚につながるということです。


《引用参考文献》

『道徳教育2022年3月号』明治図書

2022/02/15

役割演技(ロールプレイング)の種類


 「役割演技と動作化の違いは?」という質問をよく受けます。そこで、役割演技(ロールプレイング)の種類を整理してみようと思います。

 林泰成(2013)によると、道徳科授業で用いられるロールプレイングにはいくつかのスタイルがあります。それを大きく2つに分けるとすると、「シナリオ通りに演じるスタイル」と「場面設定だけをしておいて、あとは子供たちに自由に演じさせるスタイル」に分けられるということです。


【シナリオ通りの演技】

 教材に描かれたように演じてみることで、人物の心の動きや行動の意味を考えさせることをねらいます。資料の内容理解のために行われることが多いです。シナリオ通りという点から整理をすると、「動作化」と呼ばれる学習活動もこの「シナリオ通りの演技」に当てはまりそうです。


【自由に演じさせる演技】

 教材の解決のために用いられることが多い演技になります。即興的に演じさせることで、子供たちの心の奥にある「自分」を引き出します


【モラルスキルトレーニング】

 スキルの獲得のために用いられるという側面が強い縁起になります。演技のさせ方は「自由に演じさせる演技」と似ていますが、通常のロールプレイングとはそのねらいが異なると認識したほうがいいかもしれません。


《引用参考文献》

林泰成『モラルスキルトレーニング』(2013,明治図書)

2022/02/14

手品師が失いたくなかったものは?


 教材「手品師」について話し合う機会がありました。その話し合いの場で、「手品師が失いたくなかったものは何か?」という発問が提案されました。この発問に対して、皆さんならどのように答えますか。

 大劇場に行くか、少年のところに行くか。その葛藤場面での手品師の決断には賛否両論あります。教材の中の手品師は、少年のところに行くことを選びました。長年の夢だった大劇場での出演を断り、少年のところに行こうと決めた手品師は、大劇場に行くことで自分が何かを失ってしまうことを恐れたのかもしれません。その「何か」を、子供たちに考えさせたいところです。


 また、その話し合いでは、「すぐに決められなかったのは、なぜ?」という発問もありました。迷っていること自体、その行為こそ「誠実」ということではないかという理解から生まれた発問です。


 さて、特におもしろかったのは、少年のところに行った場面で役割演技を取り入れるという展開提案です。「おじさん、どうしたの?元気がないの?」と、少年から言われたら、手品師はどのように答えるのでしょうか。少年に事実を伝えると、少年は悲しむかもしれません。「どうして!?大劇場に行った方がいいよ!」と、少年から言われたら、どう答えますか。即興的に生まれる手品師の言葉の中に、実はこの教材での「誠実さ」が見つけられるのではないでしょうか。

2022/02/13

モラルスキルトレーニング(3)



 実際に「モラルスキルトレーニング」を道徳科授業に取り入れるとすると、どのような展開が考えられるでしょうか。ここでは、「縣方式」と呼ばれているモラルスキルトレーニングの展開を紹介します。


【モラルスキルトレーニングの流れ(縣邦彦氏考案)】

1

資料の提示(導入)

道徳資料を提示する。

2

ペア・インタビュー

(内容把握)

資料の登場人物になってペアでインタビューをします。

ロールプレイのウォーミングアップも兼ねています。

3

ロールプレイ①

(演技)

教材のある場面を演じさせます。シナリオ通りではなく、即興的な演技とします。

4

シェアリング

(対話)

ロールプレイ①の感想を言い合い、良い行動方法を強化し、悪い部分を修正させます。

5

メンタル・リハーサル

(自己を見つめる)

別な場面をイメージさせ、その場で自分の行動を考えさせます。

6

ロールプレイ②

(演技)

⑤でイメージしたものを再度演じさせます。③④で考えたものを一般化させることをねらいます。

7

シェアリング

(対話)

ロールプレイ②の感想を言い合い、良い行動方法を強化し、悪い部分を修正させます。

8

課題の提示(終末)

教師が説話をしたり、身につけたことを日常場面でできるように課題を出したりします。

(林泰成『モラルスキルトレーニング』をもとに、筆者作成)

 

 なお、「シェアリング」に関して、林泰成氏が著書の中で、『たとえば、演じている子どもは、「悲しい」という感想を述べていないのに、見ていた子どもが「悲しそうであった」と言うようなことがあります。(中略)その言葉によって、演者が「そういえば、悲しい気持ちだったように思う」と、心の奥底の自分の気持ちに気づくようなこともあります。』と述べているように、演技を通して対話を促し、その対話から「気づいていない自己」に気づかせることを、道徳科授業では追い求めたいところです。


《引用参考文献》

林泰成『モラルスキルトレーニング』(2013,明治図書)