【対話を見直す】
先日は、発言の中に隠された「ドミナント・ストーリー(暗黙の前提)」を見つけ出すことの重要性について述べました。私自身、道徳科授業における子供たちの発言の重みについて、その認識を改める必要があると自覚しました。
さて、本日は「対話」について考えを深めます。精神科医の斎藤環氏は博報堂教育財団こども研究所での対談の中で、「対話」について以下のように述べています。
(https://www.hakuhodofoundation.or.jp/kodomoken/column/talks/talk01/)
(以下、博報堂教育財団こども研究所HPより一部抜粋)
『世間一般で対話と思われているものも、実は対話じゃないことがほとんどです。対話とは何かを知るためには、対話でないものを考えるとよいですね。たとえば、議論や説得、説明は対話ではなく、モノローグと言うべきものです。議論、説得、説明は、すべて結論ありきですよね。このように、相手にわからせよう、伝えよう、意見を変えてやろうという意図のやりとりは、すべて対話ではないと考えてください。
対話の目的は、対話を続けることそれ自体です。相手の気持ちが変わる、結論が変わる、選択肢が変わることを目指すのは対話ではありません。治療の成果は、あくまで対話の副産物なのです。』
(以上)
日々の道徳科授業を思い起こしてみます。内容項目を読み込み、授業のねらいを立て、価値の気づきに近づけるように発問を考えます。しかし、この一連の授業づくりの過程そのものが、実は精神医療における本来の意味の「対話」を生み出さない道徳科授業をつくっているのかもしれないと気づかされます。我々は授業観の転換が求められているのかもしれません。
道徳科授業で「対話」を追い求めるのであれば、その授業目的は「対話を続けること」それ自体となるのでしょう。授業者である教師には、その対話を生み出し、続けさせるための工夫(発問や展開)が強く求められているのです。
道徳科授業は、教師に忖度をして児童生徒はいいことばかりを発言すると批判されますが、悪いことをや弱いことを発言させたらいいというものでもありません。そこにどのような「ドミナント・ストーリー」があるのか。その「暗黙の前提」に対する思い込みを解消して新たな物語を描かせるために、道徳科授業で対話を続ける。そのような授業イメージを想像してみてはどうでしょうか。
(引用参考文献)
博報堂教育財団こども研究所 2019.7.11対談「オープンダイアローグ」に学ぶ 子どもとの対話の持つ可能性」
野口裕二氏『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』(青土社,2018)
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