【「問い」を立てる】
『みんなでつくる「考え、議論する道徳」』の中で、著者の一人である畿央大学の島恒生先生は以下のように述べています。(以下、抜粋)
『「確かにそうだな。不思議だな・・・。どうしてだろう。」と、子どもの中に「問い」を立たせるのです。そして、このような「問い」が立ったとき、子どもたちは、こそこそっと、隣の友達にささやきながら、自分の意見を確かめたり、友達の意見を聞きたくなったりするのです。そのタイミングで、「じゃあ、お隣の人と相談してごらん」と言うと、さっと子どもたちの議論が始まっていきます。その後、全体の場で、それぞれの意見を整理しながら、子どもたち自身が発見・納得できるようにするのです。まさに、「主体的・対話的で深い学び」へと誘うのです。』(以上)
その時の教室の様子が目に浮かぶようです。「考えたい!」「伝えたい!」という思いが子供たちの中で生まれた瞬間を切り取った文章になっています。「お隣と相談してごらん」の合図で、きっと活発な意見交流が始まることでしょう。
道徳科の授業では「対話」が重視されています。それは決して型が大事にされているという意味ではありません。思わず伝えたくなるような、真剣に聴いてほしいと願うような、そういう思いを引き出す発問や展開を工夫してほしいということだと理解できます。このことを「主体的な学び」や「学びの必然性」という言葉で説明しているのです。
【「ずれ」を生じさせる】
さて、『子どもの中に「問い」を立たせる』という表現が上記の著書抜粋の中にあります。このことを、『「ずれ」を生じさせる』という考え方を使って説明してみようと思います。
例えば、中心発問を提示したり問い返しをしたりすることで、「えっ!」という驚きが教室に生じることがあります。この瞬間、子供たちの頭の中で思考や経験、他者との「ずれ」が生じたということになります。
これは、子供たちが想像していない視点で尋ねられた時や、これまでの経験や考え方と対比して違和感が生じたときに起こります。実際の授業場面では、導入で出した意見(実生活をもとに考えている)と、中心発問に対して出した意見(教材をもとに考えている)を対比させたり、二つ以上の道徳的価値で葛藤させるさせたりすることで生じることが多いと思います。
「ずれ」を生じさせることで「問い」が立つ。そうすることで「分からない」が生まれます。その結果、ときに話合いが混沌とすることもあります。しかし、「分からない」という思考過程こそ、子供たちにとって意味あるものになるのです。
日々の授業づくりの視点として、『「問い」を立たせる』(「ずれ」を生じさせる)ための発問づくりを常に意識したいものです。
(引用文献図書)
島恒生・吉永幸司『みんなでつくる「考え、議論するどうとく」』小学館 2017
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