2021/10/30

道徳を図解する(1)「多面的・多角的」


 愛知学泉大学教授 前田治氏の著書『道徳を図解する』から、道徳科授業で大切にしたいことを考えていきます。前田氏は、「はじめに」で以下のことを記載しています。

(以下、抜粋)

 生徒は成長過程にある不完全な人間である。そして、教師もまた不完全な人間である。生徒を不完全な縦糸とすると教師は不完全な横糸である。道徳の授業では、そんな不完全な縦糸と横糸で一枚の布を織っていく。決してきれいな布にはならない。しかし、その布には、生徒と教師が一緒になって追求した結果が織り込まれている。・・・そんな道徳の授業が好きである

(以上)

 「教師は不完全な縦糸である」、この認識に共感します。成長過程にある教師が、成長過程にある児童生徒と追求していくものが道徳科授業です。私も、そのような道徳科授業に大きな魅力を感じています。そして、その魅力が多くの皆様に届けることを自らの役割と意識しているところです。

 さて、前田氏は著書の中で「多面的・多角的」について解説をしています。「・」の表記が「即かず離れず」(不即不離)の関係を表していることから、多面的と多角的は分けて考えるのではなく一体のものとして捉えるのがよいという認識を前提としつつ、独自に定義した多面的と多角的についての具体例を挙げてみます。

 例えば、Aさんがいじめられて泣いているという場面において、従来型の授業では「主人公はどんな気持ちでしょう?」という発問になります。それに対して、「多面的に考える」と「多角的に考える」の違いを、以下のように説明しています。


【多面的に考える】

 Aさんがいじめられているという道徳的な問題場面について、さまざまな立場から考えていきます。この場合、他者を理解することにつながっていきます。

 ①主人公は何を考えているでしょう?

 ②Aさんの母親は何を考えているでしょう?

 ③周りの子は何を考えているでしょう?

 ④いじめている子は何を考えているでしょう?


【多角的に考える】

 いじめられているという道徳的な問題場面について、自分がとりうる行為をさまざまな角度から考えさせます。そして、そう判断した理由を問うことで、共通しているのは相手を思う気持ちであることに気付かせます。

 ①主人公はどんな関わりができるでしょう?

  「助ける」「声をかけない、見守る」「先生や友達に言う」など


 「多面的・多角的に考える」という文言について、新学習指導要領告示の時から様々な論争が重ねられてきました。絶対的な決まりはありませんが、私は「様々な立場や価値観をもとに思考する習慣を身につけさせる」ことが重要なのだと思っています。

 学習指導要領においても特定の価値観の押し付けにならないよう、学年段階に応じて、道徳科における主体的かつ効果的な学び方を児童自らが考えることができるような工夫をすることが大切である。』という記載がありますが、多面的・多角的な思考の習慣を身につけさせていくことが、自らで問いを立て、主体的に学ぼうとできる児童生徒を育むきっかけになると考えています。


(引用参考文献)

前田治『道徳を図解する』(大学教育出版,2020)

2021/10/29

対話における4つの認識


 劇作家の平田オリザ氏は、『対話』には4つの認識が必要だと述べています。

(1)私とあなたは違うということ

(2)私とあなたは違う言葉を話しているということ

(3)私はあなたがわからないということ

(4)私が大事にしていることを、あなたも大事にしてくれているとは限らないということ

 この「4つの認識」は、『対話』をする際の立ち位置についてとてもシンプルに表現しています。

 教師と子供たちとの対話について考えてみましょう。もし、「教師は答えを持っている唯一の存在である」という認識を持っているのなら、その認識はすぐに手放してください。

 教師は、目の前の子供たちのことを「何も知らない」という存在なのです。子供たちの生きる世界について『無知」であることを認め、子供たちの発言を聴くことに力を注ぐべきなのです。

 道徳科授業を考える際、教師は子供たちの発言(思考)を事細かに想像することが必須です。教室の「あの子」を頭に思い浮かべ、「あの子」はどのような発言をするだろうか、問い返しをどうするかなど、事前にできる限りのイメージをします。

 それは、教師に都合のよい意見ばかりを想像するのではなく、子供たちの本音を想像するということです。「Aさんはこの意見に反対するだろうな」「この発問ではBさんは興味を抱かないだろう。どんな発問がいいかな」など、目の前の子供たちの本音を想像するのです。

 しかし、実際の授業では教師の想像を超える発言が出てきます。その発言に対して興味を示し、「もっと聞かせてくれる?」という言葉をかけることが、道徳科授業における『対話』の始まりになります。「あなたのことをもっと理解したいから、教えてほしい」という思いを届けるのです。

 指導案の記載で「〜について話し合う」という語尾をよく見かけます。しかし、実際の授業では教師の発問に対して児童生徒が個別に発言をしているだけで、決して「話し合い(ここでは『対話』と同意とする)にはなっていないことをよく見かけます

 話し合い(対話)の基本姿勢は「あなたのことを教えてほしい」という受容的態度だと考えます。「わたしはあなたのことがわからない。わたしとあなたの意見は違うようだ。だから、あなたのことを理解したい。そして、あなたのことを理解しようとすることが、自分の考え方や生き方を見つめることにつながる。それが『対話』である。」

 このようなことを平田オリザ氏の「4つの認識」は教えてくれているのではないでしょうか。

(引用参考文献)

向後善之 久保田健司『マンガでやさしくわかるオープンダイアローグ』(日本能率協会マネジメントセンター,2021)

2021/10/28

1年生「かずやくんのなみだ」(5)


 ここまで1年生教材「かずやくんのなみだ」について述べてきました。最後に、私の感想や願いをお伝えしていこうと思います。

 この教材の中に、『かずやくんはあしがおそく、すぐにおにになってしまう。だから、だれもさそわないんだ。』(教科書から抜粋)という記載があります。この文章を読むと、私は胸が締め付けられる思いがします。もし、自分の息子が同じように仲間に入れてもらえなかったらと想像すると、とても悲しい気持ちになってしまいます。

 本教材のかずや君は、何も悪いことはしていません。ふつうに学校生活を送っているだけです。運動は少し苦手かもしれませんが、誰かに迷惑をかけているわけでもありません。誕生を祝福され、家族に愛され、健やかな成長を望まれているやさしい子だと想像します。

 そのかずや君が、足が遅いという理由で仲間に入れてもらえない。何も悪いことをしていないのに、まわりから気づかないふりをされる。見えないふりをされて、存在そのものが否定されている。「人権」を尊重しない、なんて悲しい学級なのでしょうか。

 多面的・多角的な思考を重視し、この授業ではかずや君を取り巻く人間関係や心情についても考えさせてあげてほしいと強く願います。

 ほら、かずや君の声が聞こえてきませんか。

ぼくは何もしていないのに、なぜ仲間に入れてもらえないの?足が遅いことは悪いことなの?ぼくが入ると迷惑なの?ただ、ただ、みんなと遊びたいだけなのに。

 この声に込められた願いは4年生教材「ヒキガエルとロバ」や中学校教材「ヨシ卜」など、様々な教材に共通している思いであり、内容項目「公正、公平、社会正義」として義務教育9年間を通して考え続ける大切な学習内容になります。

 本教材「かずやくんのなみだ」が、差別や偏見、いじめや仲間はずれの解消につながる道徳科授業の土台となること、そして今後の道徳科授業を通して「差別やいじめを許さない心」が積み上がっていくことを切に願います

2021/10/27

1年生「かずやくんのなみだ」(4)


 1年生に「二わのことり」という定番教材があります。一人ぼっちの友達(やまがら)のところに、中心人物(みそさざい)が葛藤の末に飛んでいくというお話です。実は、「かずやくんのなみだ」とお話の流れが似ていることにお気づきでしょうか。どちらも、一人ぼっちで悲しんでいる友達のことを思って行動をするというお話です。そして、友達が嬉しくなることを通して自分も嬉しくなるという結果もよく似ています。
 しかし、一方の内容項目は「友情,信頼」であり、一方は「公正、公平、社会正義」です。では、授業でねらうべきことはどのように異なるのでしょうか。ここでは、両者の違いを表で整理してみます。

二わのことり

かずやくんのなみだ

内容項目

B 友情、信頼

C 公正、公平、社会正義

学習内容

(指導書より)

友達のことを思って、大切にすることの喜び

意地悪をされて仲間に入れないことのつらさ、悲しさ

キーワード

仲よしっていいな

仲間はずれがいないと、みんな楽しい

中心発問

(指導書より)

やまがらの涙を見て、みそさざいはどんな気持ちになったか。

かずやの涙を見て、ぼくはどんなことを考えたか。

行動の様子

うぐいすや他の小鳥に声をかけない(黙って出ていく)。

さとしに「かずや君も入れてあげよう」と声をかける。

行動の結果

やまがらとみそさざいは笑顔になるが、うぐいす達は描かれていない。

かずや・さとし・ぼくのみんながおにごっこを楽しむ様子が描かれている。

 (参考)道徳科「深い学び」のための内容項目ハンドブック(日本文教出版)


 このように整理をすると両者の違いがはっきりと見えてきます。指導書の中心発問はよく似ているように感じますが、『二わのことり』(友情、信頼)は「やまがら」と「みそさざい」という二者の関係に焦点を当てています。一方、『かずやくんのなみだ』は、「かずや」と「ぼく」だけではなく「さとし」の様子も描かれています。
 このことから、「公正、公平、社会正義」の教材である『かずやくんのなみだ」は、中心人物(ぼく)を取り巻く仲間集団に目を向けさせる必要があると言えるのではないでしょうか。なお、『二わのことり』で、みそさざい(中心人物)がうぐいすや他の小鳥に「ぼくはやまがらさんの家に行くよ」と声をかけていないことも、この「二者の関係に焦点を当てる」ということが関係しているのだと想像できます。
 また、『かずやくんの涙』では、ぼくが「かずや君も入れよう!」と声をあげて不合理(仲間はずれ)を解消しようと行動しています。差別や偏見を解消するための行動として、そのよさや難しさを子供たちに共感させたいところです。ただし、1年生の発達段階を考慮すると、その行動の理由を問うても深まらないこと(理解が難しい)が予想されるので、指導書では積極的に取り上げていないようです。
 教材の流れや結果だけを見ると、二つの教材は同じようなものに見えるかもしれません。しかし、学習内容や内容項目を考えると、その違いは明確に見えてきます。「道徳科の授業はいつも同じようなことをしている」とならないように、教材分析をしっかりとしていきたいものです。
 しかし、人権教育という観点でこの教材を扱うことを考えると、「かずや」に対する不当な扱いや、それを解消しようとした「ぼく」の行動、そして考え方を変えた「さとし」の変容は、今後の学習の土台となるものです。1年生には少し難しい内容かもしれませんが、私は授業の中でぜひ取り扱ってほしいと思っています。

2021/10/26

道徳科授業の内容を検討する

 藤川大祐氏の著書『道徳授業の迷宮〜ゲーミフィケーションで脱出せよ〜』を多くの先生方に読んでほしいと思っています。この書籍を読んでいると、道徳科授業の存在意義を深く考えることができます。道徳科授業の魅力を感じているからこそ、批判的思考も大切に持っておきたいものです。

 さて、その著書の中で藤川氏は『最初に私達が行うべきは、道徳教育で扱う内容ごとの課題の検討である。考えたり議論させたりする「方法」に意識が向きがちである。だが、「内容」と無関係に「方法」だけを考えることは非生産的だ。授業で扱うべき「内容」ごとに課題を整理し、課題を踏まえた上で「方法」を検討する必要がある。』と述べています。

 以下に藤川氏の提言をいくつか列記してみます。道徳教育に携わる教師として、秋の夜長にじっくりと考えてみてはいかがでしょうか。


◯「主として自分自身に関すること」は、理想的な子ども像を目指して前向きに努力できる子どもは良いかもしれないが、そのようにできない子どもには苦痛を与えるだけでしかない。この内容を扱う際に大切なことは、一人ひとりの違いに目を向けることである。


◯努力をつらい我慢にするのではなく、楽しく努力できるよう工夫がなされるべきである。我慢を促すことは、いじめや虐待等の問題が起きてもひたすら耐えろということになりかねない


◯友人を作らなければならないという価値観は脅迫観念となり、友人を作らず一人でいることを過剰に否定させてしまうかもしれない。教科書の読み物教材においては、友人はよきものであり、信頼できる友人を作るべきだという価値観が貫かれている。友人をつくりたいと思わない者、友人をつくりたくても方法がわからない者は考慮されていないように見える。


多数派の論理に導くような授業が行われれば、少数派の児童生徒は不当に傷つけられることになりかねない。ある種の価値観について、「それは誰にでも当てはまることなのか」と問うことが必要である。


(引用参考文献)

藤川大祐『道徳授業の迷宮〜ゲーミフィケーションで脱出せよ〜』(2018,学事出版)


2021/10/25

1年生「かずやくんのなみだ」(3)


 前回に続いて、「かずやくんのなみだ」の展開部分について考えていきます。

 かずや君の涙を見たぼく。「ぼくはどんなことに気づいたでしょう」と尋ねてみると、おそらく「かずや君もおにごっこに入れてあげないといけない」という意見が出てくるでしょう。他には、「かずや君に謝りたい」という意見なども出てくると予想できます。

 ここで最も引き出したい意見は、「足が遅いという理由で仲間に入れなかったこと」に関して反省している発言なのかもしれません。まさに、この考え方が差別・偏見の学習につながっていく「不合理」なのですから。その意見が出てきた場合は、そのおかしさに気づけた子供の視点を学級全体で共有しておきたいところです。

 なお、「もし、私(児童自身)だったら・・・」という発言が出てきた際も、この発言のよさを子供たちにきちんと伝えたいところです。道徳科のねらいにも記載されている「自己を見つめる」ということに直結する発言だからです。この発言のよさをきちんと伝え、学級で共有していく。それが「学び方を知る」ことにもつながっていきます

 実は、道徳科授業の陥りやすい落とし穴の一つとして、この「学び方」をきちんと身に付けさせていないということがあります。道徳的な課題に対してどのように向き合えばよいのか。自分で問いを立てたり仮説を考えたりすることにどのような意味があるのか。そのようなことをきちんと積み上げてくことにより、道徳科の授業は学年が上がるにつれて深まりや広がりを見せるようになるはずです。いつまでも教師の発問を待っているだけの授業では、子供たちは「主体的に考えること」や「対話を続けること」のおもしろさを感じることができません。このあたりに「道徳科授業はおもしろい(役に立つ)」と実感させるポイントがあると、私は思っています。

 話を戻しましょう。ぼくは「かずや君も入れてあげようよ」と大きな声で言うことができました。人権教育の観点で考えると、「不合理を解消しようと行動する」ことができたぼく。この素晴らしさも子供たちにぜひ伝えたいところです。

 しかしながら、この行動のよさを1年生に伝えようとしても難しいのかもしれません、なぜなら、1年生は「結果に着目する」ことを重視する発達段階だからです。だから、この行動の結果(喜び)に着目させることを通して、ぼくのよさ(道徳的価値のよさ)を実感させることをねらいたいと思います。

 その後、かずや君も仲間に入り、みんなでおにごっこをしました。この場面で「ぼくは楽しかったのかな?」と改めて尋ねてみます。おそらく、「楽しい!」と答えるのではないでしょうか。また、かずや君についても尋ねてみると、同じように「楽しい!」と答えるでしょう。前回紹介した「楽しさレベル」がどちらも上昇していることがわかります。この上昇の結果を可視化することで、子供たちは「みんなで遊んだ方が楽しい」ということを実感することができます

 「みんなで遊ぶ方が楽しい!」ということの実感を通して、「一人ぼっちをつくらない」などの本時のねらいについての自覚につなげていく。そのような授業構成が考えられるでしょう。

2021/10/24

1年生「かずやくんのなみだ」(2)


 前回は「かずやくんのなみだ」の導入について考えました。導入及び範読までに「おにごっこ=おもしろい」というイメージを抱かせておくことにより、かずや君が涙を流しているのはなぜかという疑問を抱かせることができます。授業のはじめに教材や道徳的価値のイメージをもたせることが重要だということです。なお、「導入に時間をかける」という意味ではありませんので、誤解の無いようお願いします。

 さて、本日は展開場面について考えていきます。中心人物のぼくはおにごっこをしています。かずや君のことが気になっていますが、気にならないふりをしているようです。

 まず、この時のぼくについて考えてみましょう。ぼくは、仲間外れになっているかずや君に気がついています。ぼくの「人権意識」は大変すばらしいですね。学級の中の不当性に気づいているからです。この点を子供たちにきちんと伝えておきたいです。なぜなら、この授業の内容項目は「公正,公平,社会正義」だからです。

 この場面の発問について、指導書では『かずや君が鬼ごっこを見ているのに気づいた時、ぼくはどんな気持ちにだったでしょう。』とあります。ぼくの自分勝手な気持ちに気づかせるねらいがあるようです。

 私はこのような発問を「どんな気持ち発問」と呼ぶことにしました。道徳科の授業でによく見かける発問ではありますが、実は大変答えにくい発問ではないかと思っています。なぜなら、「どんな気持ち?」と尋ねられたら、子供たちは「悲しい」「嬉しい」という単語だけで答えるようになってしまいます。また、その場面の過去があり、未来もあります。その過去と未来を知っている(教材を読んでいる)ことで、その流れに沿った気持ちを考えがちです。いわゆる「読み物道徳」の授業になってしまう恐れがあるのです。また、その意見に対して教師が問い返しをしても、教師が無理に意見を引き出している感じがしたり、授業のリズムが止まってしまったりするだけで、学びの深まりは感じられないでしょう。

 そこで、この場面での発問を「鬼ごっこをしていて、ぼくは楽しかったかな?」と尋ねてはどうでしょうか。「楽しかった」という子もいれば、「楽しくない」と答える子もいるでしょう。その理由を尋ねると、「だって、かずやくんが仲間に入っていないから」などが出ると予想できます。教師が「かずや君が・・・」と尋ねるのではなく、子供たちから意見を出させることができるのです。「でも、おにごっこは楽しいはずだよね?」と問い返してあげると、より「かずや君がいないことがいけない」という思いが鮮明になるでしょう。

 楽しさのレベルを10段階で考えさせたりすることも手立てとして考えられます。なぜなら、「楽しい」と答えた子の心の中にも「楽しくない」という気持ちがあることを確認させることができるからです、また、この場面で「ぼく」と「かずや」の二人の楽しさレベルを確認しておくことで、その楽しさレベルが変容する様子を視覚的に見せることも可能になります。特に、後半のみんなでおにごっこをする場面での楽しさレベルと比べさせることで、本教材のねらいに迫ることができるでしょう。

2021/10/22

1年生「かずやくんのなみだ」(1)


 「どのような道徳科授業が、いい授業ですか」と尋ねられたら、私はこの3つの要素をお伝えすることにしています。

 ①学ぶことの必然性がある(主体的)

 ②対話による集団的な高まりがある(対話的)

 ③新たな気づきや納得が得られる(深い学び)

この3つは常に意識をしていきたいものですが、それぞれについても、その性質や目的を深く考えていく必要があります。

 「学ぶことの必然性」について考えるだけでも、例えば「生活経験とのずれを起こす」「教材や発問で心をゆさぶる」「自分ごととしての葛藤や判断をさせる」など、授業づくりにおける大切な手立てが頭に浮かんできます。

 それでは、上記のことを意識して「かずやくんのなみだ」(日本文教出版)の授業づくりについて考えていこうと思います。

 まず、導入で「学びの必然性」を生むことを考えてみましょう。導入の発問で「友達と遊ぶことの楽しさ」を存分に思い出させます。教室の雰囲気も和やかな空気となるでしょう。そこで、本時の教材紹介を始めます。「このお話のぼくも、おにごっごをして楽しんでいるよ。ワクワクしているだろうね。笑顔だろうね。もう一人、お友達のかずや君もいるよ。」と紹介しながら題名を提示します。

 「かずやくんのなみだ」と書いた時、子供たちは「えっI?」という驚きを抱きます。「おにごっこ=楽しい」という話をしていたはずなのに、題名には「なみだ」という言葉があるからです。生活経験から生まれる物語と、「なみだ」という言葉のもつ物語とのずれが生じたことになります。

 ここで、子供たちの中に「あれ?おかしいぞ」「きっとかずやくんに何かがあったんだろう」「お話を早く読みたい」という意識が芽生えました。頭の中で自分なりの物語を想像している子もいるでしょう。

 実は、この「頭の中で自分なりの物語を想像する」ということが、その後の「自分ごととして考える」ための手立てにもなります。導入や範読までに、頭の中でお話を想像させる。そうすることにより、範読の際に違和感や疑問を感じることができるようになります。教材のお話だけでは比較対象がないので、1年生の児童にとって何がおかしいのか(問題発見)に気づきにくいからです。また、自分の頭の中のお話は、過去の経験を想起したり明るい未来を描いたりしやすいものです。そのイメージと教材にずれがあることで、「〜の行動はおかしいと思う」「もし私なら〜」という思考が働くことになります

 以上、「かずやくんのなみだ」の導入例の一つを紹介しました。学びの必然性を生むための導入、ぜひ考えてみてください。

2021/10/21

マンガでやさしくわかるオープンダイアローグ と 道徳科授業


 本日は、向後善之氏・久保田健司氏の共著である『マンガでやさしくわかるオープンダイアローグ』から道徳科の授業づくりについて考えようと思います。

 本書は、精神医療の現場で注目されている「オープンダイアローグ」の事例をマンガ形式で紹介するとともに、よりよい「対話」を生むためのポイントを分かりやすく説明してくれています。

 なお、本書では、「オープンダイアローグ」は、ダイアローグ(対話)が基本になると述べています。また、「対話」とはお互いのことをあまりよく知らない者同士が、「知らない」ということを前提として行う意識的なコミュニケーションであり、さらに、お互いの違いに着目して、その違いの意味を探求していくコミュニケーションであると定義しています。

 今回は、本書で述べられている「対話」のポイントの中から道徳科の授業改善に直結するものを3つ、日々の授業場面を想起しながら紹介します。


(1)マイクロ・イエス・クエスチョン

 小さく「はい」ということのできる質問のことを『マイクロ・イエス・クエスチョン』といいます。児童生徒に『問い』を向き合わせる時、心の準備ができるようなマイクロ・イエス・クエスチョンから始めると、はるかに抵抗が少なくなるようです。

 例えば、「さっきあなたが言ったことで気づいたことがあるのだけれど、説明してもいいですか?」「あなたがさっき言ったことについて、ひとつ仮説が浮かんだのですが、それがしっくりいくかどうか聞いてもらえますか」などがマイクロ・イエス・クエスチョンとなるようです。


(2)質問で締めくくる

 授業者がなんらかのコメント、特に解釈を伴うコメントをした場合、それに対して児童生徒がどのように感じ、どのように考えたのかを確認することが大切になります。たとえば、「今、どのようなことを感じていますか」などと問いかけることになります。


(3)プリング・フィードバック

 セラピストは自分に対するフィードバックを定期的に求めます。これを、『プリング・フィードバック』(pulling feedback)といいます。このことは、学校現場での指導場面においても重要なことだと言えるでしょう。「私は、あなたの話を正確に把握していますか?」と尋ねることで、教師が児童生徒から学ぼうとしている姿勢があることを示すことにもなります。

 オープンダイアローグに限りませんが、プリング・フィードバックをすることにより、クライアント(児童生徒)とセラピスト(教師)の双方が対等性を確認することになります。そうしたやりとりが、多様性を生む土壌につながっていくと、本書では述べられています。 


(引用参考文献)

向後善之 久保田健司『マンガでやさしくわかるオープンダイアローグ』(日本能率協会マネジメントセンター,2021)