6年生「わたしのせいじゃない」(2)
(1)内容項目「公正、公平、社会正義」
学習指導要領解説では、指導の観点(高学年)で「誰に対しても差別をすることや偏見をもつことなく、公正、公平な態度で接し、正義の実現に努めること。」とあります。
さらに、P53「指導の要点」を見ると、以下のことが記載されています。
(以下、「指導の要点」から抜粋[1])
いじめなどの場面に出会ったときにともすると傍観的な立場に立ち、問題から目を背ける人も少なくない。
(以上)
この教材では14名の子ども全員が「(その子がいじめられているのは)わたしのせいじゃないわ」という趣旨の発言をしています。しかし、「叩いた」と発言している子は2名、その他の子は叩いたのかどうかわからない記述になっています(「大勢」や「みんな」という言葉もあるので、実際のところはわかりません)。
多くの子は直接的な暴力をしていないかもしれない。でも、悲しい現実が広がっている。このことから分析できることは、「叩いていないからわたしのせいじゃない」という『傍観者』に焦点を当てる必要があるということではないでしょうか。
例えば、ある子は「ぼくはこわかった なにもできなかった みているだけだった」と発言しています。いかがでしょうか。この子には責任はなかったのでしょうか。そのような視点で授業づくりを考えてみると、子ども達に自然と対話が生まれる授業が構築できるのではないかと思います。
また、指導の要点には以下のことも記載されています。
(以下、「指導の要点」から抜粋[2])
こうした問題は、自分自身の問題でもあるという意識をもたせることが大切である。
(以上)
要するに「自己を見つめる」という学習活動を重視するということです。教材の中の道徳的課題を自分ごととして捉えさせ、これからの課題や目標を見付けることができるようにするということになります。
(2)難しい教材?何を考えさせる?
「わたしのせいじゃない」を一読すると、「授業しづらいなぁ」と感じられる方がいるかもしれません。なぜなら、いわゆる中心人物が存在しないからです。
授業のはじめ、教材を読んだ児童は知らず知らずに「傍観者」として存在する立場となります。外の世界からこの「いじめ」を見ている状況になるからです。すると、目に届くのは直接的な言動になりがちです。例えば、「ぼくもたたいた」や「その子がかわってるんだ」、「よわむしなのよ」などの言動です。それらの行為に対して、児童は嫌悪感を抱くことでしょう。
しかし、「それ以外の子の言動は許してもいいのではないか」とする子も出てきます。「直接手を出していないから」や「何もしていないから」という理由からです。
まさに、ここがこの教材(絵本)のトリックです。目に見える言動(直接的な行為)に隠された傍観者の責任を見えにくくさせているのです。大変巧妙なつくりになっています。この絵本の副題が「せきにんについて」となっている理由にもうなずけるのではないでしょうか。
上記のことから、この教材は傍観者の責任を問うものであり、傍観者とはあなた(私たち)自身であるということに気づかせる教材だということができるでしょう。
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