2021/09/26

道徳教育は「いじめ」をなくせるのか(1)


 「多数者の視点から脱却することなしに、道徳教育がいじめ防止に寄与するとは考えにくい」このように述べているのは、千葉大学教育学部教授の藤川大祐氏です。

 藤川氏は、著書『道徳教育は「いじめ」をなくせるのか』の中で、道徳科授業における内容項目の扱い方に注目しています。特に「公正、公平、社会正義」を取り上げ、以下のように述べています。

(以下、抜粋)

 公正、公平、社会正義を素朴に受け止めれば、公正等に背く態度は許されないのであるから、そうした態度をとる者に対して否定的な行為をしてもよいだろうということになりかねない。

(以上)

  例えば、提出物を出さない者に対して、他の児童生徒の前で教師が厳しく非難する。そのことが児童生徒を追い詰めてしまう。このような事態に対して藤川氏は道徳科授業の役割として「たとえ秩序を守らない者がいたとしても私的制裁は許されないということを腑に落ちるまで学べるものであるべきだ」と述べています。まさに、現代のSNSでの誹謗中傷問題につながる論です。

 子ども達は発達の過程で時に公正等に背く言動をしてしまうことがあります。それに対してみんなで非難してしまう集団をつくるのではなく、その言動について対話を重ね、みんなで許しあえる集団を作っていきたいものです。そして、そのような役割を道徳科授業は担っているという自覚も授業者は大事に持っておきたいです。


(参考図書)藤川大祐『道徳教育は「いじめ」をなくせるのか』2018 NHK出版

2021/09/25

オープンダイアローグ 私たちはこうしている(書籍)から考える(3)


 本日も、森川すいめい氏の『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』(医学書院)という書籍をもとに道徳科授業及び道徳教育について考えていきます。

(オープンダイアローグとは1980年代にフィンランドで確立された精神医療の方法です。その特徴は『対話』を中心としたミーティングを重ねることで問題を解消することを目指すところにあります。)


(1)「アバウトネス」ではなく「ウィズネス」で

 森川氏は、オープンダイアローグでの話し方について、「アバウトネス」と「ウィズネス」という2つの話し方をもとに説明しています。「アバウトネス(aboutness)」とは自分たちとは切り離されたこととして扱う話し方で、「ウィズネス(withness)」というのは、自分たちのこととして扱う話し方です。道徳科の授業においても、児童生徒の話し方がこの2つのどちらかになるかで、学びの質も大きく異なるでしょう。


【アバウトネスの会話の例】

 Aさんはどうしていやがらせを止めないのでしょうか。Bさんはそれで困っている。近くにいるCさんがしっかりしなければならないと思います。

【ウィズネスの会話の例】

 BさんとCさんの話を聞いて、私はとても心配になりました。CさんがどうしてAさんを止めることができないのか、何か事情があるのか、その理由を聞いてみたいです。

 

 いかがでしょうか。どちらの発言も道徳的な問題に対して真剣に考えていると感じられます。しかし、アバウトネスの会話は他人事として発言しているように感じます。それに対して、ウィズネスの会話ではその人の悩みの本質に迫ろうとしています

 道徳科授業において、教材の中の問題を無責任に批判することは簡単です。しかし、安易に人物の言動を批判させることが果たして道徳性の成長につながるのでしょうか。道徳科の授業は、無責任な批判をさせることが目的ではありません。それではネット上での辛辣なコメントと同じものになってしまいます。だからこそ、オープンダイアローグと同様に、道徳科の授業でも「ウィズネス型」の対話を引き出す発問や展開が求められるのです。

2021/09/24

オープンダイアローグ 私たちはこうしている(書籍)から考える(2)


 本日も、森川すいめい氏の『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』(医学書院)の書籍をもとに道徳科授業について考えていきます。

 「オープンダイアローグ」は1980年代に開発された精神疾患に対する治療方法です。その特徴は「対話」を中心としたミーティングを重ねることによって治癒をもたらすところにあります。

 さて、森川氏は著書の中で以下のように述べています。

(以下、抜粋)

『相談に来た人たちと上下関係が存在しがちな場では、専門職の言葉はどうしても重いものになってしまいます。実際の価値よりも重くなってしまえば、その言葉は助けになるどころか有害です。相手を理解しようと思って質問をしても、その質問自体が相手にとっては脅威になることがあります。そこで私は、質問をした意図も一緒に話すようにしています。

 たとえば「どうしてそう思ったのですか?」と聞くと詰問されているように感じるかもしれないので、「私はあなたの考えをもう少し理解しようと思っています。どうしてそのように思ったのかをお聞きしてもいいでしょうか」というように言葉を加えると、質問をした意図も一緒に伝えることができます。』

(以上)

 これを道徳科授業の一場面として考えてみます。近年「問い返し」や「補助発問」という手法が注目されています。その是非は今後述べるとしますが、子ども達にとって、「問い返される」ということがどれほど重いものとなっているか想像しないといけません。特に、日常的にあまり発言をしない児童にとって、教師による「問い返し」という行為が、その後の発言への恐怖を生み出すものになりかねません。

 「問い返す」という手法は大変有効であると認識しています。だからこそ、まずは子どもの発言を教師はきちんと受容すべきです。決して、「この意見が出たぞ!よし、問い返そう!」などと、授業展開のみを考えて問い返すものではないのです。

 さらに、なぜ問い返しをしているのか。その意図をきちんと伝える必要があります。「教師自身が対話の輪の中の一人である。対等な立場として、あなたの意見に興味がある。もっと教えてほしい。」その思いを届けるのです。

 そうすれば、子どもの心の中に「自分の意見が受け入れられた」という安心感が生まれます。受容されているという安心感があるからこそ、「問い返す」という手法が子ども達の学びを深める手立てになるのです。


2021/09/23

6年生「わたしのせいじゃない」(4)


(1)一番を決める

 先日の記事で6年生「わたしのせいじゃない」の授業記録を紹介しました。この授業では、一つ目の発問で「最もひどいのはどれだと思いましたか」と尋ねています。教材に登場する14人の人物の発言の中から一つを選択して、ネームプレートを貼るという活動です。

 ネームプレートを貼ることで全員参加を促すねらいがあります。また、思考を見える化させることで、その後の活発な対話につなげることもできます。

 さて、どれか一つを選択させると、学級の中で意見が分かれます。「叩いた」という発言を選ぶ子も多いでしょう。直接的な暴力を許せないと考えている子達です。「では、直接叩いていない人物は許してあげる?」と尋ねてみると、「えっ!?でも・・・」という返事が返ってくるかもしれません。そうなれば、全体へのゆさぶりの瞬間です。

 同様に、「存在を忘れていた」「その子が悪いのよ」などを選択する児童もいるでしょう。直接叩いていないかもしれないけれど、いじめに加担していると考えられる発言に対しての怒りです。ここでは、その人物(発言者)を「積極的傍観者」と名付けてみましょう。対して、「ぼくは何もできなかった」と発言している人物もいます。これを「消極的傍観者」と名付けてみます。おそらく、「消極的傍観者」を最もひどいと選択する児童は少ないかもしれません。一見すると、いじめに加担していると感じづらいからです。

 しかし、この教材のねらいは「消極的傍観者」の存在に気づくことになります。だからこそ、はじめの発問では「直接的暴力者と積極的傍観者の理不尽な言動を許せない」という心情を育てるとともに、「消極的傍観者」の存在にも目を向けさせる段階となります。


(2)並び替えをする

 授業中盤では、グループごとに14人の発言を並び替えさせています。もちろん正解はありません。並び替えがすぐに終わることもないでしょう。ここで大事にすることは、並び替えという活動を通して多面的・多角的に考え議論させるということです。

 教材の中に、いじめの背景などは出てきません。14人の発言のみ描かれています。だから、授業のはじめは発言のみに注目している状況になります。しかし、並び替えという活動の中で友達との意見が異なった場合、「でも、〜だから」「もし〜だとしたら」という発言が生まれてきます。自分の思いを伝えるために、人物の発言やいじめの背景を自然と分析するようになるのです。これが、多面的・多角的に考えるということになります。教師が発問を用意するのではなく、場の設定が多様な思考を生み出す支援となっているのです。 

 また、並び替えをしている中で、自然と「許せない」「ひどい」という思いも沸き起こってくることも予想されます。「悪を許せない」という道徳的心情が育っている瞬間です。その心情の育ちを感じられるつぶやきが聞こえてきたら、それを全体に広めてあげることで、学級集団の成長につながります。

2021/09/21

オープンダイアローグ 私たちはこうしている(書籍)から考える(1)

書籍紹介「オープンダイアローグ 私たちはこうしている」


 本日は、森川すいめい氏の『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』(医学書院)の書籍をもとに道徳科授業について考えていきます。

 「オープンダイアローグ」は1980年代に開発された精神疾患に対する治療方法です。その特徴は「対話」を中心としたミーティングを重ねることによって治癒をもたらすところにあります。

 森川氏は著書の中でこのように述べています。

『未来のことはすべて不確実です。答えが見つかったように思えても、すべては未来のことゆえに、そもそも答えがないのかもしれません。なのに支援者だけが頭の中で解釈を進めて、「この人はこういう人だ」「あの人はここで住むことができない」「入院させたほうがいい」などと結論を出して、支援者だけが不確実なところから脱出している。よくあることです。』

 いかがでしょうか。この文章を読んでハッと気づくことはないでしょうか。私は日々の道徳科授業の反省が思い浮かびました。子ども達が活発に話し合っている場面。しかし、授業者である私は頭の中に結論を用意している。話を聞いているふりをして、その後の問い返しに使えそうな発言を探している。そのような自分の姿が見えました。まさに私は「支援者(授業者)だけが不確実なところから脱出」していたのです。


 日々の授業の中で、教師がチョークを持って黒板の前にいることは当たり前の光景です。しかし、対話を通して自己を見つめさせることを大切にする道徳科において、果たしてそれでよりよい対話が成立するのでしょうか。教師という専門職がいる空間(教室)では、否応なしに教師を起点(中継)する対話が生まれます。もちろん、子ども同士の対話が成り立っている教室もありますし、タブレットPCを活用した新たな授業形態も構築されていくと思いますが、現状では教師による発問で対話が進むことが多いでしょう。

 対話における重要な役割をもつ教師は、もっと子ども達の輪に入るべきかも知しれません。チョークを置き、子ども達の世界に入っていく。そうすることで、初めて生み出される対話もあるということです。


 また、森川氏はこのようにも述べています。

専門家自身が「聞きたいこと」を聞こうとする。聞きたいこととは、診断や治療にとって、またその後の支援のために役立つ情報でした。しかし医師が診断のために聞きたいと思うことと、患者さんが何に困り、何を相談したいかとは異なることに気づいていきます。』

 このことも、教師として自戒の念を生じさせます。授業の中で教師が聞こうとする(板書する)のは、その後の展開に役立つ発言。でも、子ども達が本当に考えたい・伝えたいことは、もっと他のところにあるかもしれない。そう捉えると、子ども達の発言に対する教師の意識も変わってくるのではないでしょうか。

 生徒指導にも同様のことがいえます。何かしらのトラブルがあった際、教師は事実を聞き取り、指導します。しかし、大切にすべきことは、子ども達の「思い」を聞いて、不安や困り感を「解消」させることなのではないでしょうか。そのような視点を教師は忘れてはいけないと反省させられます。

2021/09/19

6年生「わたしのせいじゃない」(3)

6年生「わたしのせいじゃない」(3)


(1)授業のゴール

 この教材を扱った授業のふり返りを想像してみます。子ども達の言葉で「いじめはいけないと思いました」とだけ書かれたノートを見ても、おそらくは学びの深まりを感じられないでしょう。授業をしなくても、6年生の子ども達はそのようなことを書くことができるからです。

 ここで、一度立ち止まって考えてみましょう。世の中の大人は「いじめはいけない」という答えのみを教えすぎてきたのではないでしょうか。もちろん、いじめは理屈抜きにいけないことです。でも、答えのみを教え続けることで、子ども達は思考を停止させてしまっているのかもしれません

 例えば、親子が揃って「いじめの是非」について時間をとって語り合えている家庭はどれほどあるでしょうか。教室で、子ども達が「いじめ」や「差別」について自然と対話している姿を見かけることはあるでしょうか。

 おそらく、いじめをしてはいけない理由について本気で話し合ったり、自分の行動をふり返ったりできる機会は、子ども達の日常の中にはありません。だからこそ、道徳科授業が大事になるのです。

 さて、授業のゴールについては登山をイメージすると分かりやすいでしょう。頂上は「いじめはいけない」という強い決意になりますが。そこに至るまでにどのような過程を辿らせるか、その過程が道徳科授業のねらい(ゴールイメージ)になるといえます

 この教材での授業でいうと「傍観者という存在に気づかせる」という学びが、頂上につながる一つの過程になるでしょう。具体的には、「〇〇という活動を通して、いじめにおける傍観者の不公正さに気づかることで、〜。」となるでしょう。


(2)授業例(『 』は教師の発言)

『感想をどうぞ』

「私のせいじゃないと言って、みんなのせいにするのはよくないと思いました。」

「見ていただけでも悪いのに、私は悪くないと言っているのはずるいと思いました。」

「みんながやっているからと言って自分もやるのはおかしいと思いました。」

『最もひどいのはどれだと思いましたか。黒板に磁石(名札)を貼りましょう。

(理由を説明しましょう)』

「自分が叩いたのに、やられている子のせいにしているのは悪いと思ったからです。」

「【面白くない子だ】というのはひどいと思ったからです。」

「見ているだけだったら止めたらいいのにと思いました。」

「その子のことをほとんど忘れていたということは、このクラスにその子はいらないということだと感じたので、そこに貼りました。」

「少しだけ叩いたと言っているけど、自分の中の少しだけというのは、叩かれている人と感覚が違うと思うからです。」

『小さく印刷したものを用意しているので、許せない順に並べましょう。』(班活動)

「え〜!!」「むずかしい!」

(カードを並び替えながら話し合う)

『「ここまでは許せる」「ここからは許せない」に分けてください。』

(カードを使って話し合いが続く)

『今、これらのことをされているのが自分だとします。このクラスの出来事だとしたら、その線を引いたところまでを許せますか?』

「許せない!」

「すごく変わる!」

「立場が自分だったら絶対に許せません。」

「自分がいじめられているときに友達がこんなこと言ったら、友達じゃないと思う。」

『自分だったらと考えると、どれも許せない人が多いのではないかな。友達がこういうことをされていたら、どうする?そのようなことも考えてふり返りを書きましょう。』

2021/09/18

6年生「わたしのせいじゃない」(2)

6年生「わたしのせいじゃない」(2)


(1)内容項目「公正、公平、社会正義」

 学習指導要領解説では、指導の観点(高学年)で「誰に対しても差別をすることや偏見をもつことなく、公正、公平な態度で接し、正義の実現に努めること。」とあります。

 さらに、P53「指導の要点」を見ると、以下のことが記載されています。

(以下、「指導の要点」から抜粋[1])

いじめなどの場面に出会ったときにともすると傍観的な立場に立ち、問題から目を背ける人も少なくない。

(以上)

 この教材では14名の子ども全員が「(その子がいじめられているのは)わたしのせいじゃないわ」という趣旨の発言をしています。しかし、「叩いた」と発言している子は2名、その他の子は叩いたのかどうかわからない記述になっています(「大勢」や「みんな」という言葉もあるので、実際のところはわかりません)。

 多くの子は直接的な暴力をしていないかもしれない。でも、悲しい現実が広がっている。このことから分析できることは、「叩いていないからわたしのせいじゃない」という『傍観者』に焦点を当てる必要があるということではないでしょうか。

 例えば、ある子は「ぼくはこわかった なにもできなかった みているだけだった」と発言しています。いかがでしょうか。この子には責任はなかったのでしょうか。そのような視点で授業づくりを考えてみると、子ども達に自然と対話が生まれる授業が構築できるのではないかと思います。

 また、指導の要点には以下のことも記載されています。

(以下、「指導の要点」から抜粋[2])

こうした問題は、自分自身の問題でもあるという意識をもたせることが大切である。

(以上)

 要するに「自己を見つめる」という学習活動を重視するということです。教材の中の道徳的課題を自分ごととして捉えさせ、これからの課題や目標を見付けることができるようにするということになります。


(2)難しい教材?何を考えさせる?

 「わたしのせいじゃない」を一読すると、「授業しづらいなぁ」と感じられる方がいるかもしれません。なぜなら、いわゆる中心人物が存在しないからです。

 授業のはじめ、教材を読んだ児童は知らず知らずに「傍観者」として存在する立場となります。外の世界からこの「いじめ」を見ている状況になるからです。すると、目に届くのは直接的な言動になりがちです。例えば、「ぼくもたたいた」や「その子がかわってるんだ」、「よわむしなのよ」などの言動です。それらの行為に対して、児童は嫌悪感を抱くことでしょう。

 しかし、「それ以外の子の言動は許してもいいのではないか」とする子も出てきます。「直接手を出していないから」や「何もしていないから」という理由からです。

 まさに、ここがこの教材(絵本)のトリックです。目に見える言動(直接的な行為)に隠された傍観者の責任を見えにくくさせているのです。大変巧妙なつくりになっています。この絵本の副題が「せきにんについて」となっている理由にもうなずけるのではないでしょうか。

 上記のことから、この教材は傍観者の責任を問うものであり、傍観者とはあなた(私たち)自身であるということに気づかせる教材だということができるでしょう。

2021/09/17

6年生「わたしのせいじゃない」(1)

6年生「わたしのせいじゃない」(1)日本文教出版


(1)絵本を見てみよう

 この教材はスウェーデンでシリーズ化されている絵本の翻訳本(発行所は岩崎書店)からの出典になります。その絵本の「訳者あとがき」に、以下のようなことが書かれています。

(以下、訳者あとがきを一部抜粋[1])

このシリーズの背景にはスウェーデンの学校で行われている「オリエンテーリング科」という教科があります。人間の生き方を模索しながら、同時に社会のさまざまな問題にも目を向け、友情、孤独、幸福といった人間関係の大切なテーマが扱われています。

(以上)

 このシリーズの他の題名は、「ともだち」「じぶん」「ひとりぼっち」「おんなのこだから」などがあります。これらの題名からも伝わってきますが、あとがきに書かれている「人間の生き方を模索しながら」という点が、まさに道徳科の目標と合致しているといえます。道徳科授業において、この絵本(教材)を通して「自己をみつめること」や「自分の生き方を考えること」が求められてるということです。


 上述のあとがきの続きを紹介します。

(以下、訳者あとがきを一部抜粋[2])

『わたしのせいじゃない』は、このシリーズのなかでもやや特異なシリアスな内容を備えています。いじめの状況と、その責任のなすりあいが描かれ、後半の写真は多くのことを語りかけてきます。』

(以上)

 教科書に掲載されているのは、いじめの場面のみとなっていますが、出典元の絵本では、その後に「原爆」や「飢餓」、「戦争」、「環境汚染」、「少年兵」などの写真が掲載されています。「いじめ」という身近であり残酷な事例を入り口にして、社会的な問題についても子ども達に深く考えてほしいという著者の願いが伝わってきます。

 教科書には前半の「いじめ」部分のみが掲載されています。しかし、道徳科の授業をする際、その「いじめ」の部分に焦点を当てるのか、そこを入り口にして広い意味での「公正、公平、社会正義」について考えさせるのか、授業者は一度考えてみる必要があるでしょう。

 なぜなら、学習指導要領解説(P53)にも、「社会的な差別や不公正さなどの問題はいまだに多く生起している状況があるため、これらについて考えを巡らせ(後略)」とあることから、この教材を入り口として広く人権課題について考えさせる授業を検討することも道徳科授業の目標に合ったものになるからです。

2021/09/16

自己を見つめる授業〜ユニット授業の考察〜

自己を見つめる授業〜ユニット授業の考察〜

(1)自己を見つめる

 道徳科の目標では「自己を見つめる」という学習活動が重視されています。このことについて、学習指導要領解説では以下のように記載されています。

(以下、抜粋)

 自己を見つめるとは、自分との関わり、つまりこれまでの自分の経験やそのときの感じ方、考え方と照らし合わせながら、更に考えを深めることである。このような学習を通して、児童一人一人は、道徳的価値の理解と同時に自己理解を深めることになる。また、児童自ら道徳性を養う中で、自らを振り返って成長を実感したり、これからの課題や目標を見付けたりすることができるようになる。

(以上)

 この解説文から読み取れることを整理してみます。

◯これまでの自分の経験やそのときの感じ方、考え方と照らして考える。

 →教材の人物の葛藤や決断を自分ごととして捉えるための手立てが必要だということです。別の言い方をすれば、発問や展開を工夫することが求められています。


◯自らを振り返って成長を実感したり、これからの課題や目標を見付けたりすることができる。

 →自分を物語る活動やふり返りを通して、成長を実感したり今後の課題を設定したりできる時間を確保する時間が必要となります。


(2)自己の生き方についての考えを深める

 道徳科の目標に「自己の生き方についての考えるを深める」という記載もあります。このことについては、学習指導要領解説の中で「これからの課題を考え、自己の生き方として実現していこうとする思いや願いを深めることができるようにする」と説明されています。

 以上のことから、道徳科授業の展開として一つの案が導き出されます。

 ①中心人物の変容を自分の経験や感じ方と照らして考える。

          ↓

 ②自らの成長を感じたり、課題を見付けたりする。

          ↓

 ③課題を実現していこうとする思いを深める。


(3)ユニット授業

 さて、ここまで述べてきたことを45分(50分)の授業で全て意識することは難しいと感じられる方もおられるかもしれません。そこで注目したいのは、田沼茂紀氏の「パッケージ型ユニット授業」の考え方です。

(詳細は本ブログ https://tman-doutoku.blogspot.com/2021/09/blog-post_2.html ご覧ください)

 ユニット授業では、テーマに基づいて課題を探求する道徳的学びが可能になります。連続的な指導に取り組むことで学習課題への子供達の意識は授業が進むごとに明確になり、自分ごととしての学びにつなげられるというよさがあります。

 例えば、「自分について考える」という学習テーマを設定した場合、内容項目A「主として自分自身に関すること」の教材でユニットを組むことが考えられます。

 学習テーマである「自分について考える」の詳細を、「自分のよさに気づくことで自己肯定感を育むとともに、「もっとよくなりたい」という思いをもつことで目標に向かって努力しようとする道徳的心情を育てる」と設定したとします。すると、自ずと内容項目(教材)も決まってきます。

 第1時は『節度、節制』の教材を扱う。オリエンテーションも兼ねる。「しっかりと考える」ということについて、自分の納得解をもてるようにする。

 第2時は『個性の伸長』の教材を扱う。自分のよさを知るとともに、「よさは伸びる」ということに気づかせる。

 第3時は『希望と勇気、努力と強い意思』の教材を扱う。なりたい自分をイメージさせ、その自分になるために必要なものについて考えさせる。「もっとよくなりたい」という心情を育てることで、その後の学校生活につなげられるようにする。

 このようなユニットそのものが、先程述べた道徳科授業の展開となっていることにお気づきでしょうか。ユニット授業などの手立てを取り入れることで、自己を見つめることのできる道徳科授業が実現しやすくなるといえるでしょう。