ピアジュは、子どもの発達は「脱中心化」にあるとしています。この「脱中心化」について、河野(2011)は著書の中で以下のように述べています。
(以下、参考文献より一部抜粋)
人間の知性の働きが脱中心化にあるとしても、その発達は一気になされるわけではなく、個々のステップを踏んだ漸進的な過程のはずである。メルロ=ポンティは、発達心理学や精神分析の症例をいくつも取り上げながら、私たちは、現在のものとは異なる視点をひとつひとつ取ることによって、徐々に己の経験や視点を相対化していくものであると指摘する。
脱中心化を達成するには、他の視点への「再中心化」を幾度も経なければならない。他者の立場に身を置くこと、すなわち自己と他者の同一視は、脱中心化にとって不可欠のステップである。
(以上)
他者の立場に身を置くことが脱中心化にとって不可欠のステップであるという河野の論から想像するのは、道徳科授業における「教材の人物になりきって考える」という学習活動の意義です。私たちが日常的に行っているこの学習活動が、実は子どもの発達の重要なステップになるということではないでしょうか。そのうえで大事なことは、中心人物の立場に身を置かせるための手立てと、発問を通して中心人物の視点が子供たちの視点と異なることに気づかせる必要があるということではないかと考えました。
《参考引用文献》
河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(2011,ちくま書房)
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