2022/10/31

学ぶことが楽しい


 熊本大学大学院の前田康裕特任教授は、「主体的に学ぶ」ということについて、以下のように述べています。

(以下、引用参考文献より抜粋)

「主体的な学び」とは何か、ということです。この点については、学習指導要領解説(総則編)には「学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しをもって粘り強く取り組み自己の学習活動を振り返って次につなげる」と示されています。すなわち、興味や関心の対象は「学ぶこと」それ自体だということです。つまり「学ぶって楽しい」「新しいことを知るって楽しい」という気持ちです。 

(以上)

  週一回の道徳科授業を、「学ぶことが楽しい」「考えたり友達と議論したりすることが楽しい」という主体的な学びの場にしたいものです。


《引用参考文献》

SKY株式会社『ICTを活用した学習をサポート 学校とICT』(2022年10月号)

2022/10/29

相互の共感


 アダム・スミスは経済学書『国富論』(1776)の前に倫理学書『道徳感情論』(1759)を著し、その中で「人間社会を構成するものは、人々の相互に対する共感だ」と述べています。市場が健全に機能するには、その背後に人間相互の共感がなければならないというのです。

 「人間相互の共感」、まさに子供たちに身につけさせたい資質・能力であり、道徳科授業で育てるべきものであると考えます。そして、私達大人も常に意識しなければならないものでもあります。

2022/10/28

近いものが、かえって遠い


 道徳科の教材には、子供たちにとって身近な内容のものもあれば、偉人教材のように遠くに感じてしまうものもあります。日常生活にあり得る出来事が描かれている教材は、一見して授業がやりやすいように感じます。しかし、実際に授業をすると、「子供たちの心に響かなかったなぁ」と感じることが、私にはよくありました。

 村上敏治は、教材の「近い、遠い」について以下のように述べています。

(以下、引用参考文献より一部抜粋)

主題の課題性について述べた時に触れたように、資料に関しても、日常の児童生徒の生活経験に「身近なもの」ということについての関心が、教師の側に強く、それに執着する傾向が多い。「身近」なものを否定することはもちろんあり得ないが、身近な話題をもった資料が、主題のもつ課題に適合するとは限らないし、また、児童生徒の真に切実な要求に応ずることも困難であり、主題のもつ課題に応ずることも困難である場合が多く、結果として、よほど吟味精選された児童生徒の生活問題をもって埋めなければ、主題を蔽うことが難しい。近いものが、かえって遠いというゆえんである。つまりこの場合には、教師の説話その他、一応位置付けられた資料を上廻るような補助資料その他によって上積みしなければ、主題のもつ課題に肉薄していくことは困難である。

(以上)

 「近いものが、かえって遠い」という表現が秀逸です。まさに、道徳科授業の教材との距離感を的確に表現しているように感じました。

 また、村上は「資料を上廻るような補助資料その他によって積み上げなければ(後略)」とも述べています。このことは、学習指導要領解説(中学校 P105)に、

道徳科においても、主たる教材として教科用図書を使用しなければならないことは言うまでもないが、道徳教育の特性に鑑みれば、各地域に根ざした郷土資料など、多様な教材を併せて活用することが重要である。

と書かれています。

 他にも、例えば内容項目D「生命の尊さ」には、「生命倫理に関わる現代的な課題を取り上げ」と書かれています。

 子供たちとの距離が近い教材の場合、村上が述べているように、一応位置付けられた資料(多くの場合、教科書)を上廻るような補助資料その他によって上積みすることが、主題のもつ課題に肉薄できる授業づくりのポイントになるということです。


《引用参考文献》

村上敏治著『道徳教育の構造』(1973,明治図書)

2022/10/27

生徒同士による「問い返し」


 教科調査官の飯塚秀彦氏は、道徳科授業における「問い返し」について、以下のように述べています。

(以下、引用参考文献より抜粋)

道徳科の授業における「問い返し」の重要性が指摘されますが、多くの場合「問い返し」は教師が行うものです。しかし、新たな「疑問」や「問い」が生まれる授業においては、生徒同士による「問い返し」もあり得るのではないでしょうか。生徒同士が「問い返し」ができるような授業は一朝一夕にはできるものではありませんが、このような授業も是非めざしていただきたいものです。

(以上)

 生徒同士による「問い返し」が生まれるには、どのような要素が必要になるでしょうか。まず、子供たちが本気で「考えたい」「伝えたい」と思える教材や、発問(展開)が必須でしょう。また、挙手指名制ではなく、つぶやきを大事にする授業を目指すこと、川流れ式で整った(余裕のない)板書ではなく、シンキングツールなどを使った自由度の高い板書も必要になるのではないでしょうか。何より、子供たちに「疑問」や「問い」をもたせるための、教師の日頃からの言葉がけも大事です。


《引用参考文献》

『令和4年度第17回兵庫県中学校道徳教育研究大会 報告資料』

2022/10/26

道徳科における「自律的な思考」


 教科調査官の飯塚秀彦氏は、「自律的な思考」について、『中学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編』(p.112)をもとに以下のように述べています。

(以下、引用参考文献より一部抜粋)

(中学校学習指導要領開設 特別の教科 道徳編 p.112をもとに)生徒の学習状況は、「学習活動において生徒が道徳的価値やそれらに関わる諸事象について他者の考え方や議論に触れ、自律的に思考する中で」見取ることができるという点を押さえておく必要があります。(中略)特に「自律的に試行する中で」の部分に注目し、道徳科の授業改善のポイントを考えると、話合いや議論などが生徒の自律的な試行を促すものになっているかという観点で授業を評価し、改善していくことが求められます。

 道徳科において生徒が「自律的に思考する」とはどのようなことでしょうか。様々に考えられると思いますが、例えば、話合いや議論などによって、道徳的価値に関わる新たな「疑問」や「問い」が生まれてくる状況であるとも考えられます。単にグループでそれぞれの考え方を発表し合ったり、全体で発表したりするだけにとどまらず、そこから新たな「疑問」や「問い」が生まれることではじめて、深い理解へと至る話合いや議論が始まるものと考えられます。

(以上)

 「自律的に思考する」とは、子ども自身が新たな「疑問」や「問い」をもつこと。「発問は教師がするもの」という前提で授業をしていると、この発想は生まれてこないでしょう。「この教材で気になったことは?」「みんなの意見を聞いて、疑問に思うことはある?」など、小さな言葉がけ一つを日々繰り返すことで、子供たちは自ら「疑問」や「問い」を見つけようとするようになるのではないでしょうか。自律的な思考が生まれる道徳科授業こそ、まさに対話的な授業であり、深い理解につながる授業であるといえます。


【参考】中学校学習指導要領開設 特別の教科 道徳編 p.112

 こうしたことを踏まえ、評価に当たっては、特に、学習活動において生徒が道徳的価値やそれらに関わる諸事象について他者の考え方や議論に触れ、自律的に思考する中で、一面的な見方から多面的・多角的な見方へと発展しているか、道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているかといった点を重視することが重要である。このことは道徳科の目標に明記された学習活動に着目して評価を行うということである。道徳科では、生徒が「自己を見つめ」「広い視野から多面的・多角的に」考える学習活動において、「道徳的諸価値の理解」と「人間としての生き方についての考え」を、相互に関連付けることによって、深い理解、深い考えになっていく。


《引用参考文献》

『令和4年度第17回兵庫県中学校道徳教育研究大会 報告資料』

2022/10/25

道徳科授業の禁じ手


 道徳科授業における「タブー」「禁じ手」について、東京学芸大学の永田繁雄氏は以下のように述べています。

(以下、引用参考文献より抜粋)

子どもの学びの意識の中には、「決まりごと」や「禁じ手」はない。例えば、子どもは道徳授業に際して、「こうしなくてはいけない」「これをやってはいけない」などと考えながら学習しているだろうか。おそらくいないだろう。道徳授業の「決まりごと」「禁じ手」は、子どもではなく、教師の意識の中だけにある

(以上)

 永田氏によると、いわゆる「タブー」や「禁じ手」は、道徳授業の実施が安定しない時期に、他の教科等の指導とは一線を画した「道徳授業らしさ」を確保するという趣旨があったこと、そして、道徳授業のコンスタントな実施のため、原則を前面に出すほうが指導しやすいという側面があったということです。しかし、それによって道徳授業の「硬直化」や「形骸化」が増幅され、その柔軟性を失いがちになってしまったことも指摘しています。

 さて、永田氏は具体的にいくつかの「タブー」「禁じ手」について、具体的に解説をしています。例えば、『気持ちではなく、「なぜ』」「どうして」と発問する』というタブーについては、「なぜ」「どうして」と発問することは、主人公になり切れないから避けるべきと指導されてきたが、客観的・分析的な見方がなければ深い思考に至らないことを私達は知っている、と述べています。


《引用参考文献》

『道徳教育 2022年10月号』(2022,明治図書出版) 

2022/10/23

ホットシーティング(2)


 弘前大学の宮﨑充治によると、ドラマ教育(役割演技等の体験的手法)のポイントは3つあるようです。

1

「考えてから表現する」のではなく、「表現してから考える」という「即興性」

2

身体を使う、口に出すなど、思いや考えを自分の身体を通す「身体性」

3

即興的で、身体を伴った活動だから、つい「自分」を演じるしかなく、そこから生まれる、役と自分との矛盾や、自分の中での葛藤といった様々な「ジレンマ」

 そして、「即興性」「身体性」「ジレンマ」という3つのポイントに加え、「ホットシーティング」の場合は、「質問力を鍛えること」がポイントになるということです。

 どうしても、ホット・シートに座る「役者」に目が行きがちですが、「役者」の思考を引き出すのはフロアの質問であり、役者(演者)とフロア(観客)との「対話」がホット・シートを取り入れるよさになるからです。


《引用参考文献》

『道徳教育 2022年10月号』(2022,明治図書出版) 

渡部淳、獲得型教育研究会編『学びを変えるドラマの手法』(2010,旬報社)


2022/10/22

ホットシーティング


 明治図書出版の『道徳教育 2022年10月号』の記事の中で、弘前大学教育学部附属中学校の佐々木篤史氏が「ホットシーティング」という手法を紹介していました。

 ホットシーティングとは、「テキストの内容やある場面の登場人物の心情などをより深く理解するために、教師や学習者が登場人物となって、質問したり答えたりする技法」のことです。

 誰かが、質問を受ける「ホット・シート」に座った時点で活動が始まります。シートに座った子が、教材の人物になりきってフロアからの質問に答えていきます。重要になるのは、「考えてから表現する」のではなく、「表現してから考える」という「即興性」であり、いわゆる「役割演技」と共通するところがあります

 「役割演技」は、どうしても「演じる」ということに抵抗や恥じらいをもってしまうことがあります。しかし、この「ホットシーティング」は、「人物になりきる」ことは同じですが、椅子に座って質問に答えることになるので、比較的取り組みやすいように感じました。

 佐々木氏も、「中学生は(教材を俯瞰してしまうので)教材の内容を自分ごととして考えるのが苦手である。そこで、ホットシーティングを取り入れたことで、子ども達はインタビューのやり取りから、場面や感情をイメージしやすく、自分の考えと比較しながら考えやすくなった」と述べています。

 「ホットシーティング」、是非取り組んでみたいです。


《引用参考文献》

『道徳教育 2022年10月号』(2022,明治図書出版) 

渡部淳、獲得型教育研究会編『学びを変えるドラマの手法』(2010,旬報社)

2022/10/21

主題と自己の課題化


 先日の記事で、村上敏治の「主題は、児童生徒の課題になければならない」という考えを紹介しました。ここで「課題」という言葉を使っていますが、村上はこの「課題」についても著書の中で言及しています。

(以下、参考引用文献より抜粋)

道徳的自覚は自己から出発して自己に還るべきものである。道徳指導における指導過程は、基本的に、自己発見・自己克服・自己統一の筋道に置いて成り立つ。導入段階は、問題発見・自己発見の段階であり、終末は、他者の具体的生活経験を吟味することを通して、その学習経験と自己とを統一する段階である。道徳授業における主題の学習は、その学習過程において、自己を課題化することに他ならない。自己の直面している課題を見つめ、学習を通して、課題を追求し克服していく過程において、何らかの意味と程度において、自己が組み入れられ、自己が課題化されるものであってこそ、真に主題が構成されたといえるだろう。

(以上)

 教材の人物の視点で問題(葛藤)を解決しようとすることを通して、おぼろげであった価値の理解が明確になる。それとともに、自己の考え方や経験に含まれる「課題」と向き合うことができ(自己の課題化)、今後の生き方を考えることができる。これこそ、道徳科の授業の意義である。このように村上は述べているのだと、私は読み取りました。


《参考引用文献》

村上敏治著『道徳教育の構造』(1973,明治図書)

2022/10/20

主題


 道徳科授業の指導案を書くとき、一行目に「主題」を書きます。また、その主題を板書してから授業を始めたり、中心発問や振り返りで活用したりしている授業も見かけます。

 さて、「主題」について村上敏治は著書の中で端的に説明しています。

(以下、参考引用文献より抜粋)

主題は単なる話題ではなく、主たる問題であるが、さらにいえば、児童生徒の現在および将来に人間として生きる上での課題でなければならない

(以上)

 主題とは、人間として生きる上での『課題』でなければならないと村上は論じています。私達は教科書や指導書に記載されている「主題」を、特に考えることなく使ってはいないでしょうか。そして、その「主題(のようなもの)」が子どもたちにとって『人間として生きる上での課題』となるかどうかを考えず、ただ記載・提示しているだけになってはいないでしょうか。親近性や切実性をもつ主題こそ、課題となるはずです。

 授業を考える際、「はたして、この『主題』は子どもたちの課題になり得るか」を、児童生徒の実態をもとに考える必要がありそうです。


《参考引用文献》

村上敏治著『道徳教育の構造』(1973,明治図書)

2022/10/19

知らない間のできごと


 5年生教材「知らない間のできごと」について考えます。内容項目は、A「友情、信頼」です。

 本教材は、あゆみ(転入生)と、みかの二人の視点で描かれています。あゆみが携帯電話を持っていないことに驚いたわたしが、「今度の転校生、携帯を持ってないんだって。友達あまりいないみたい。これはすいそくだけど。」と、学級の友達にメールを送ってしまいます。しかし、そのメールが「今度の転校生は、携帯を持ってないから、仲間外れにされて、この学校に入ってきたらしい」という内容になって広まってしまいます。

 さて、この教材(みかの言動)に対する子供たちの素直な感想として、「自分も悪いけれど、友達にしか送っていないのだから、勝手に内容を変えて送った友達のせいだ」という意見をもつ子はいないでしょうか。対して、「友達も悪いけれど、思い込みでメールを送った私が悪い」と発言する子も多いでしょう。

 授業の中で、前者の意見もぜひ大切にしたいところです。もし、実際に教材のような事案があった場合、あゆみに連絡をするより先に、メールを送った友達に「あのメールだけど、他の誰かに送った?どんなふうに送った?」と確認しようとしてしまうのではないでしょうか。「自分は悪くない」と思いたい人間の弱さから生まれる行動だと言えます。その弱さを自覚させたいところです。

 さて、この「道徳的価値のよさ」と「人間の弱さ」という両者の立場の意見が対立した時に、「あゆみ(転入生)の立場で考えると、どのような行動をしてほしいか。それはなぜか。」と尋ねてみてはどうでしょうか。高学年の「友情、信頼」では、「本当に相手のためになることは何か」を考えさせることが重要になります。転入してきて不安に思っているあゆみの心を救うために大切なことは何かを考えさせることを通して、友情を深めるために大事にしたいことについての自己の理解を深めさせます。

2022/10/18

議論による教育


 現行の学習指導要領では、「主体的・対話的で深い学び」が求められています。また、道徳科授業においても、「対話」が重視されています。河野(2011)は、議論(対話)による教育について、以下のように述べています。

(以下、引用参考文献より抜粋)

 道徳的な社会においては、人びとが社会のなかで自分自身のあり方や価値について考え、それを他者へ訴える言葉を持つ必要がある。そのなかで、自分にとって何が重要であり、何が重要でないかという価値観を形成する必要が生じてくるのだし、それも、他者と議論することを通してそれを組み立てていかざるをえないのである。

 したがって、道徳教育ではまず、自分にとっての価値やニーズを表現し、それについて人びとと討議すること、また、他者の価値やニーズの表現を理解し、必要であれば、その観点から自己の行動や組織のあり方を変容させる仕方を学ぶ必要がある。この過程は議論によって進められる。よって、議論は、道徳の核心をなす過程であり、議論による教育は、道徳教育の核心をなす要素である。

(以上)

 上記の記述から、道徳科授業における対話の必要性を感じることができます。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(2011,ちくま書房)

2022/10/17

「共感」とは何か


 

 スミスは、「人間は想像によって他人の立場に身を置くことができ、そこから共感が生まれる」としている。

 また、河野(2011)は、「共感とは、想像上の立場の交換であり、立場を交換して自分の情念と他者の情念が一致したときには、他者の情念が適正であると感じて是認する。適正と感じない場合には否認する。この是認と否認が道徳感情であり、すなわち道徳判断である」と述べています。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(2011,ちくま書房)

アダム・スミス『道徳感情論』(2003,岩波文庫)

2022/10/16

脱中心化と道徳科授業(2)


 子どもの発達に必要な「脱中心化」(ピアジュが提唱)について、他者の立場に身を置くこと、すなわち自己と他者の同一視が、脱中心化にとって不可欠のステップになると、河野(2011)は述べています。

 さて、小学校6年生に「杉原千畝 ー大勢の人の命を守った外交官ー」という教材があります。この教材を扱った授業に何度も取り組んできましたが、小学生に杉原千畝の気持ちを考えさせることはとても困難であると感じていました。そうであれば、杉原千畝の気持ちを想像させるのではなく、杉原千畝の言動について、自分の立場からそのよさや難しさを考えさせることのほうがよいのではないかと考えていました。

 しかし、ピアジュの「脱中心化」という視点から改めて考えてみると、小学生の子ども達が、自らの視点と異なる杉原千畝の立場に身を置き、その葛藤や決断の背景を理解しようとすることこそ、子ども達の成長につなげるための不可欠なステップなのではないかと考えます。

 「偉人と呼ばれる人の心情を想像することは難しいけれど、成長のステップに不可欠なことである」という思いで、杉原千畝をはじめとする偉人教材に取り組むことが道徳科授業では大事になるのではないでしょうか。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(2011,ちくま書房)

2022/10/14

脱中心化と道徳科授業


 ピアジュは、子どもの発達は「脱中心化」にあるとしています。この「脱中心化」について、河野(2011)は著書の中で以下のように述べています。

(以下、参考文献より一部抜粋)

 人間の知性の働きが脱中心化にあるとしても、その発達は一気になされるわけではなく、個々のステップを踏んだ漸進的な過程のはずである。メルロ=ポンティは、発達心理学や精神分析の症例をいくつも取り上げながら、私たちは、現在のものとは異なる視点をひとつひとつ取ることによって、徐々に己の経験や視点を相対化していくものであると指摘する

 脱中心化を達成するには、他の視点への「再中心化」を幾度も経なければならない。他者の立場に身を置くこと、すなわち自己と他者の同一視は、脱中心化にとって不可欠のステップである

(以上)

 他者の立場に身を置くことが脱中心化にとって不可欠のステップであるという河野の論から想像するのは、道徳科授業における「教材の人物になりきって考える」という学習活動の意義です。私たちが日常的に行っているこの学習活動が、実は子どもの発達の重要なステップになるということではないでしょうか。そのうえで大事なことは、中心人物の立場に身を置かせるための手立てと、発問を通して中心人物の視点が子供たちの視点と異なることに気づかせる必要があるということではないかと考えました。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(2011,ちくま書房)

2022/10/13

道徳教育に対するイメージ


 河野哲也(2011)は、道徳教育に対するイメージについて、著書の中で以下のように述べています。

(以下、一部抜粋)

 従来の「道徳」教育に関するイメージとはどういうものであろうか。日本の道徳教育の伝統的なモデルは、心理学と結びついた徳育にあったといってよい。それは、社会で認められている一定の価値を受け入れ、社会規範やルールを遵守する個人を作り出す教育であった。(中略)さらに注意すべきは、個人が社会に貢献すべきこと、個人が社会に奉仕すべきことが、繰り返し何度も強調されていることである。だがその一方で、個人に対する社会の側からの貢献、すなわち、社会による個人の人権の擁護や自律性の尊重はアンバランスなまでに小さくなってしまっている。つまり、社会は個人よりも上位の価値をもつ存在者と見なされている。そこには、人間のエゴイズムに対する臆病なまでの恐怖心が表現されており、個人の尊厳という近代的な原理が軽視されているかのようだ。

(以上)

 社会と個人の関係について考えさせられる文章です。河野は、道徳教育が「社会規範やルールを遵守する個人を作り出す教育」になっていると訴えています。このことについて、私たちは道徳教育及び道徳科授業の本来の目的を見直す必要があるでしょう。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(2011,ちくま書房)