2022/03/27

授業びらき


 4月、子供たちとの出会いの季節。授業開きをどのようにするか、授業者としての悩みどころであり、楽しみなところでもあります。

 道徳科の授業開きで私が大事にしていることは、「対話の時間をできる限り確保する」ということです。道徳科は「教師が教える」という時間ではなく、「対話を通して、自分について知る」という時間であるという意識をもってほしいからです。

 私は、道徳科授業は対話の時間であると考えています。対話そのものを目的とし、対話を通して感じる違和感、いわゆる、「自分を物語ることで生まれる新しい自分に気づく」ことを目的とするべきだと考えています。それゆえ、授業びらきでは、そのよさを存分に味わってほしいのです。

2022/03/26

つぶやき

 授業中の子供たちの「つぶやき」をどのように扱うか。挙手指名を重視している学級では、残念ながら「つぶやき」は時に身勝手で迷惑な行為と捉えられてしまうことがあります。 

 それに対して、園田雅春(2021)は『「つぶやき」は教師が意図する学校知と、学習者が経験的に知っている生活知、その両者の接点で瞬時に生じる花火であり、新たな学びの貴重な入り口になる』と述べています。園田にとって、「つぶやき」は学習における大変重要な要素なのです。

 確かに、道徳科の授業の中で「そんなのおかしい!」というつぶやきが生まれる時がありますが、それは子供たちの実体験(生活知)と教材の内容(学校知)がぶつかった時に生まれます。園田の言葉を借りると、まさに「瞬時に生じる花火」なのです。そのつぶやきの花火が、授業を色鮮やかなものにしてくれるのです。

 また、園田は、子供の生活知と学校知が呼応する授業を創り出すには「余白」が必要だと伝えています。時に教師は授業の流れを直線として設計してしまいます。直線型の授業設計は、子どものつぶやきが入り込む余地を奪ってしまうことになります。つぶやきを生むために「余白をつくる」ということは、授業づくりの際に気をつけたいポイントの一つといえるでしょう。


《引用参考文献》

園田雅春『「つながり」を育み授業を愉しむ』(2021,解放者出版)

2022/03/25

沈黙


 

 諸富祥彦(2008)は、「沈黙」について以下のように述べています。

(以下、抜粋)

心理療法やカウンセリングの基本として、面接中のクライアントの「沈黙」を大切にする意義がしばしば説かれる。面接中にクライアントが語る物語の方向性が「沈黙」の後にしばしば転換し始めることが多いのは、確かなようである。

(以上)

 道徳科の授業において、子供たちの「沈黙」は教師に不安を与えます。「えっ!発問がわからなかったかな」と思ってしまい、慌てて発問を言い直す姿もよく見かけます。多かれ少なかれ、誰もが経験する授業場面ではないでしょうか。

 しかし、実はその「沈黙」こそが重要だと諸富は述べています。そして、その重要性を「ダイレクト・リファー」という概念で説明しています。

    『ナラティブと心理療法』(2008,金剛出版)の諸富の主張(P61~64)をもとに筆者作成

 

 子供たちの沈黙は、もしかしたらこの「ダイレクト・リファー」の瞬間なのかもしれません。そう捉えると、発問の後の沈黙の重要性を強く感じることができます。逆にいえば、発問すぐの挙手ばかりに発言をさせていると、子供たちの中に「ダイレクト・リファー」は生まれないでしょう。「沈黙」を意識することも、道徳科授業の必須要件ではないでしょうか。


《引用参考文献》

森岡正芳『ナラティブと心理療法』(2008,金剛出版)


2022/03/24

ひとは語りでできている

 高橋規子(2008)は、ナラティブ・セラピーが他のセラピーと大きく異なる点は、「ひと」というものごとの捉え方にあるとしています。ナラティブ・セラピーでは、「ひとは語りでできている」、より詳細に記述すれば、「語りを通じてひとは構成され、対話の中で構成され続ける存在である」ということです。

 ひとが語りでできているのであれば、自分をストーリー化(自己を物語る)という体験を通して、生まれてくる言葉をつなげる(組織化)するという行為そのものが治療的であるということになります。つまり、語るという行為は、経験を組織化するプロセスにおいて、ひとの自己組織化を促進するということです。

 高橋の論から道徳科授業を考えてみましょう。道徳科授業では、「問い」を通して、または他者を姿見として、子供たちに自己をふり返らせ、自らの生き方を考えさせることをねらいます。そして、「自己をふり返る」ということは、自己の内面を言語化して整理・組織化するということであり、「自己を物語る(ナラティブする)」という治療的行為になります。

 それは、言葉や文章として外に発することもあれば、心の中でつぶやくということもあります。例えば、葛藤場面での対話の際に、「もし自分なら・・・」「そういえば、あの時・・・」というように過去の記憶を整理し、そこから生まれてくる言葉を必死につなごうとする姿を見かけます。また、終末のふり返りの場面で自分の経験や思いを書き綴る子もいます。そのような行為こそ自己を物語っているのであり、道徳科授業で大事にしたい行為なのです。

 授業を参観すると活発な議論に目が行きがちですが、その議論を通して子供たちがどのように自己を物語っているか、そこに着目したいものです。

 

《引用参考文献》

森岡正芳『ナラティブと心理療法』(2008,金剛出版)

2022/03/23

「ナラティブ・アプローチ」から考える


  

 「ナラティブ・アプローチ」という心理療法があります。90年代に始まった臨床実践の方法で、「問題の外在化」、「無知の姿勢」、「リフレクティング・チーム」などの実践が含まれる手法になります。

 さて、森岡正芳(2008)はナラティブ・アプローチについて以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

クライアントが自分の問題や症状をどのように述べていくかにまず耳を傾ける。この場面では、出来事ともう一つの出来事とのつながりという最小限のサイズでのナラティブが対象となる。その際に重要なのは、出来事の内容そのものに焦点を当てるのではなく、語りを通じて今ここで立ち現れてくる意味(its eaning now)に焦点を当てることである。語り手がその言葉を通じてどのような意味を伝えようとしているのか。どのような世界を形成しようとしているのか。そこに集中する。

(以上)

 道徳科授業での子供たちの発言を想像してください。子供たちは必死に何かを伝えようとしています。しかし、語彙の不足や他者からの反応への不安から言葉足らずになってしまうことが多々あるでしょう。

 教師は、子供たちの「言葉」だけを聴くのではなく、その言葉を使って何を伝えようとしているのか。その子の描いている世界はどのようなものなのか、そのことを意識深く聴こうとする必要があるといえるでしょう。


《引用参考文献》

森岡正芳『ナラティブと心理療法』(2008,金剛出版)

2022/03/22

教材と子供たちの同一性


 井上治郎(1981)は、「道徳の授業は『資料を教える』ことに徹するべきである」と主張しています。その理由の一つとして、道徳の授業が、道徳的価値とか徳目とかを教える授業にだけはしてはならないという井上の願いがあるようです。

 さて、「資料を教える」を主張している井上は、その資料の提起する話題がリアリティをもつことの決め手として「同質性」を要求しています。子どもたちが主人公の立場になって考えたとき、自分もこうした状況下においてなら、この主人公と同じようなことを考えたり、やったりしかねないと思える節が、多かれ少なかれ含まれていることを資料の不可欠の条件として説明しています。

 そのような資料(教材)が引き出す子どもたちの意見は、批判的な意見と称賛的(弁護的)な意見の対立というかたちをとります。したがって、そのいずれかの意見の対立を前提(出発点)として、子供たちの話し合いを組織化するのが道徳の授業の姿であると、井上は述べています。


《引用参考文献》

現代道徳教育研究会編『道徳教育の授業理論 十大主張とその展開』(1981,明示図書)

2022/03/21

価値の一般化(2)

 竹ノ内一郎(1981)は、価値の一般化について以下のように述べています。

(以下、抜粋)

 中心発問での価値把握では、特定の場面、条件下での特定の主人公の行為に関してなされるものであるだけに、そのままでは、現在および将来の生活における価値把握としては不十分である。したがって、児童・生徒の自分自身の生活の内省(多くの場合は、ねらいとする価値を実現できなかった自分の自覚)させることを通して現在および将来の生活において、ねらいとする価値がどのように実現されるかを追求・把握させるところの価値の一般化の工夫を図る

(以上)

 竹ノ内の言説を整理します。

(1)中心発問だけでは、価値理解としては不十分である。

(2)ねらいとする価値を実現できなかった自分を自覚させることが必要。

(3)ねらいとする価値がどのように実現されるかを追求・把握させることをねらう。

 さて、竹ノ内は「友達と仲良くし励まし合って助け合う心情を育てる」をねらいとする仮定の授業をもとに、価値の一般化について詳しく説明しています。

 教材の内容は「けがをして休んでいる友達に花を持ってお見舞いに行く」というものです。この教材での授業を通して、たしかにねらいを達成することはできます。しかし、この教材の内容だけが、友情・信頼の全てではないことは明らかです。

 そこで、「休んでいる友達に花を持って行かなければ、友達を励ますことにならないのか」という発問をすることによって、子どもたちの友情・信頼に対する考えを広めることができるでしょう。いわゆる「補助発問」というものです。

 このような発問によって、「見舞いに行かなくても電話をかけてようすを聞く」「休んでいた友達が学校に出て来たときに進んで声をかける」などと、友達と仲よくし励まし合うということについていろいろ考えられるはずです。さらに、友達が困っている時は病気の時ばかりではないことにも思いを至らせ、病気でない場面での友情・信頼についても意図的に考えさせることが、「価値の一般化」になるということです。

 このように道徳科授業では、ねらいとの関連でとりあげた教材の指導に終始するのではなく、ねらいとする価値について広く、深く考えるようにさせることが大切であると、竹ノ内は説明をしています。このことは現在の道徳科授業においても重視されていることであり、不易流行の「不易」に値する考え方であるといえるでしょう。


《引用参考文献》

現代道徳教育研究会編『道徳教育の授業理論 十大主張とその展開』(1981,明示図書)

2022/03/20

価値の一般化


 「価値の一般化」の提唱者は元文部科学省視学官 青木孝頼です。青木(1966)は、「ねらいとする一定の価値の本質を子どもたちに把握させ、体得させる」ことを価値の一般化と捉えています。

 しかし、道徳の時間(当時)の素材は常に特殊な内容の一事例であるため、価値の本質がその特殊な内容に含まれているにもかかわらず、子供たちが「特定場面における価値」として把握してしまうことを青木は危惧しました。特定場面の価値の指導のみになってしまうと、道徳の時間の効果的な指導であるとはいえないからです。

 道徳の授業では、「特殊な内容の一事例」を扱う教材における価値の把握を通して、それを現在および将来にわたる子どもの全生活経験と結びつく「価値の本質」としてとらえさせることが大事であり、ここに、価値の一般化を図るくふうの必要性が強調されることになったのです。

 また、元文部科学省教科調査官 瀬戸真は「一般化という学習過程には、段階として『特定化』と言える作用がある」と述べています。その過程を経て一般化されるということです。

 つまり、「困っている人がいたら親切にしてあげたい」という気持ちから、「ぼくはうちのおばあちゃんのふとんをあげてあげよう」という特定の場面の思考が生まれる。このような特定の事例がいくつか発表されることによって、「ああ、そうあ、そんなところにも生かすことができるんだなぁ」という一般化を生むことになる。こうした一連の学習過程を「価値の一般化」と呼ぶとしています。


《引用参考文献》

現代道徳教育研究会編『道徳教育の授業理論 十大主張とその展開』(1981,明示図書)

2022/03/19

うばわれた自由(5)



 教材「うばわれた自由」の発問を整理します。ここでは、永田繁雄(2019)の「発問の立ち位置」をもとに整理してみます。

【分析的発問】

・誰の自由が奪われたのか。どうして奪われたのか。

・ガリューとジェラールの、それぞれの自由とは。

・ガリューは正しいことをしたのになぜ牢屋に入れられたのか。「正しい」とは。

・ガリューの自由は、本当の自由と呼んでよいか。

【共感的発問】

・ガリューに咎められたジェラールは、どんな気持ちになったか。

・ガリューが牢屋の中で気づいたことは。

・ジェラールは牢屋でガリューと再会した。その時に気づいたことは。

【批判的発問】

・ジェラールの考える自由をどう思うか。

・ジェラールを牢屋に入れた人たちの考える自由は、どのようなものか。

【投影的発問】

・ジェラールの考える自由に納得できるところはあるか。

・自分だったら、ガリューのようにジェラールの身勝手を止められるか。

・自分がジェラールだったら、咎められてどんな気持ちになるか。


 ここまでの教材分析を通して、様々な発問が頭に浮かんできます。どの発問が「正解」ということはなく、授業のねらいや児童の実態に合わせて、様々な発問を組み合わせることで「深い学び」につながる道徳科授業が生まれるといえるでしょう。

2022/03/18

うばわれた自由(4)


 模擬授業の中で 「誰の自由が奪われたのか」と問われたときに、「国民の自由」という発言がありました。自由は安心や安全、安定の中で成り立つものであり、ジェラールの行為はそれらを国民から奪ってしまった。それゆえ、国民の自由も奪ったことになるということです。

 確かに、ジェラールの行いにより、国民は「きまりのなかでの自由」を奪われました。さらに、互いに「自由」を奪い合うことになり、最終的にジェラールの自由も奪われることになります。そう考えると、この教材は「ジェラール」と「ガリュー」という二者の視点だけでなく、国民も含めた三者の視点で考えさせることが重要であると実感できます。

 そして、この「国民」こそ、実は「学級の中の自分たち」かもしれないということを子供たちは自ずと感じるのではないでしょうか。子供たちは、学級の中に安心や安全、安定を求めています。その中において、身勝手な言動をする者に対して反発をもつことに強く共感できるからです。

 これらのことから、「誰の自由が、どのように奪われたのか」という問いに対しては、下図の①〜④の視点のように多面的・多角的に考えることで、「自由」についての自分ごととしての問いが生まれるといえるでしょう。

 

2022/03/17

本音?


 「子供たちの本音を引き出す」。そのような声が道徳科授業の事後(事前)検討でよく聞こえてきます。ところで、教師の求める「子供たちの本音」は真なるものなのでしょうか。「本音」=「教師が引き出したい言葉」となってはいないでしょうか。

 そもそも、なぜその発言を本音だと判断できるのか。例えば、普段から言動の荒い子の心の内は、もしかしたら大変弱々しいものかもしれません。そう考えると、「教師の求める本音」=「教師によるレッテル」になってしまうことはないかと、私は危惧します。「あの子はいつもそうだから」「あの子がそんなことをいうのは納得できない」などの教師の一面的な見方によるレッテルが、教師の求める「子供たちの本音」となり、教師によって無理に引き出されてしまうという構図が成り立ってしまうのです。

 子供の発言そのものが、その子を作っています。大人から見たら建前でも、その子からすれば真実なのです。そうであれば、教師の役割はその発言に興味をもち、その発言についての対話につなげることなのです。

2022/03/16

うばわれた自由(3)


(前日から続く)

 ジェラール王は、牢屋でガリューに再開したことで「自由」という概念についての考えを改めます(変容場面)。ジェラールは、自由を失うことで初めて「自由」のもつよさと責任の重さに気づいたのです。人間は、失って初めてその大切さに気づくということを教えてくれている場面です。

 ジェラールの「自由」に対する概念は、どのように変容したといえるでしょう。これは、「個人の自分勝手な自由」から、「社会の中での自由」へ意識が変わったといえないでしょうか。

 ここで、自由の条件を子供たちに整理させてみたいところです。

・自分勝手は自由ではない。きまりを守ったうえでの自由が大切。

・自由とは責任を負うもの。

・ガリューのように相手に押し付けてはいけない。相手の自由を奪ってはいけない。

・自由とは、自分のなかのルールを作って、それを守ること。

・自由があるから、様々な発想が生まれる。

このような概念が子供たちから出てくるのではないでしょうか。

 さて、学習指導要領解説には、以下のように書かれています。

(以下、一部抜粋)

 自己を高めていくには何事にもとらわれない自由な考えや行動が大切である。自由には、自分で自律的に判断し、行動したことによる自己責任が伴う。自分の自由な意志によっておおらかに生きながらも、そこには内から自覚された責任感の支えによって、自ら信じることに従って、自律的に判断し、実行するという自律性が伴っていなければならない。

 指導に当たっては、自由と自分勝手との違いや、自由だからこそできることのよさを考えたりして、自由な考えや行動のもつ意味やその大切さを実感できるようにすることが大切である。また、自由に伴う自己責任の大きさについては、自分の意志で考え判断し行動しなければならない場面やその後の影響を考えることなどを通して、多面的・多角的に理解できるようにすることが重要である。

(以上)

 いかがでしょう。上記の子供たちの発言と、学習指導要領解説の記述が一致していることに気づきます。「うばわれた自由」の授業づくりには、これまで述べてきたような素材研究が必要なのだと、今回のAtoZ道徳授業学習会で学ぶことができました。

2022/03/15

うばわれた自由(2)


(前日から続く)

 本教材の題名が「うばわれた自由」となっています。そこで、「誰の自由が奪われたのですか?」という発問が当日の模擬授業で提案されました。大変興味深い発問です。

 おそらく、「正しいことをしたのに牢屋に入れられたガリューの自由が奪われた」と考える子供が多いのではないでしょうか。または、「ジェラール王、あなた様も、とうとう、自由をうばわれてしまいましたな」というガリューの言葉が描かれているので、「ジェラールの自由が奪われた」と考える子供もいるでしょう。

 「それぞれの自由は、なぜ奪われたのですか?」。このような問いも投げかけてみたいものです。ガリューは、法を遵守し、法を守ろうとしたことで自由を奪われました。それでは、この教材は「正しいことを正しいと主張したら、困難が待っている」ということを伝えたいのでしょうか。または、そのような社会への怒りを引き出そうとしているのでしょうか。そのようなねらいもあるかもしれませんが、ガリューの他者への関わり方にも着目させるべきだと考えられます。

 初対面のジェラール王子に高圧的に接したガリュー。自分の正しさを相手に押し付けようとしている姿を、子供たちはどのように感じるでしょう。正しいかもしれないけれど、高圧的な態度に反感を感じる子がいるかもしれません。

 この姿を、山田貞二氏は「徳の騎士」という哲学の概念を使って説明しています。「徳の騎士」とは、自分の考える正しさを相手に押しつけるという態度のことをいいます(差別・偏見には、この「徳の騎士」から生まれることも多いです)。

 「ガリュー=徳の騎士」と捉えると、「ガリューも、ジェラールの自由を奪おうとしていなかったか」という問いも考えられます。そのように問うことで、「自由」とはどのようなものなのか、「自由」の本質について考えを深められるでしょう。


2022/03/14

うばわれた自由


 第30回AtoZ道徳授業学習会(主催:岐阜聖徳学園大学 山田貞二先生)参加をしました。今回の教材は、小学校高学年の定番教材である「うばわれた自由」。

 さて、本教材の作者をご存知でしょうか。私も存じ上げていませんでしたが、江橋照雄氏が書いた教材になります。江橋氏は「手品師」の作者でもあります。「手品師」では、少年のところに行くか大劇場に行くかのどちらを選ぶかという葛藤を通して、「誠実さ」についての価値理解を対比させています。「うばわれた自由」でも、そのような葛藤や対比が描かれているところに、江橋氏の教材づくりのねらいが込められているのでしょう。

 では、「うばわれた自由」には、どのような葛藤・対比が描かれているのでしょう。この日の研修会でも、そのことが議論の土台にあがりました。


 

 本教材のテーマは「自由」です。ジェラールとガリューの、それぞれの考える自由とはどのようなものなのかで対比が生まれます。これが対話のきっかけとなります。

 ジェラールの考える自由は、社会規範を考えない自分勝手な自由といえます。みんなにとって公平ではなく、他者に迷惑をかける自由です。

 対して、ガリューの考える自由は、他に左右されない自由であり、法のもとにある自由ということができます。英語で言うと「リバティ」になるのでしょうか。

 これだけを見ると、ガリューは「正しい存在」であり、ジェラールは「正しくない存在」という構図が見て取れます。しかし、それだけでは、この教材のおもしろさと難しさは理解できないということを、この日の研修会で改めて気づかされました。