竹ノ内一郎(1981)は、価値の一般化について以下のように述べています。
(以下、抜粋)
中心発問での価値把握では、特定の場面、条件下での特定の主人公の行為に関してなされるものであるだけに、そのままでは、現在および将来の生活における価値把握としては不十分である。したがって、児童・生徒の自分自身の生活の内省(多くの場合は、ねらいとする価値を実現できなかった自分の自覚)させることを通して現在および将来の生活において、ねらいとする価値がどのように実現されるかを追求・把握させるところの価値の一般化の工夫を図る。
(以上)
竹ノ内の言説を整理します。
(1)中心発問だけでは、価値理解としては不十分である。
(2)ねらいとする価値を実現できなかった自分を自覚させることが必要。
(3)ねらいとする価値がどのように実現されるかを追求・把握させることをねらう。
さて、竹ノ内は「友達と仲良くし励まし合って助け合う心情を育てる」をねらいとする仮定の授業をもとに、価値の一般化について詳しく説明しています。
教材の内容は「けがをして休んでいる友達に花を持ってお見舞いに行く」というものです。この教材での授業を通して、たしかにねらいを達成することはできます。しかし、この教材の内容だけが、友情・信頼の全てではないことは明らかです。
そこで、「休んでいる友達に花を持って行かなければ、友達を励ますことにならないのか」という発問をすることによって、子どもたちの友情・信頼に対する考えを広めることができるでしょう。いわゆる「補助発問」というものです。
このような発問によって、「見舞いに行かなくても電話をかけてようすを聞く」「休んでいた友達が学校に出て来たときに進んで声をかける」などと、友達と仲よくし励まし合うということについていろいろ考えられるはずです。さらに、友達が困っている時は病気の時ばかりではないことにも思いを至らせ、病気でない場面での友情・信頼についても意図的に考えさせることが、「価値の一般化」になるということです。
このように道徳科授業では、ねらいとの関連でとりあげた教材の指導に終始するのではなく、ねらいとする価値について広く、深く考えるようにさせることが大切であると、竹ノ内は説明をしています。このことは現在の道徳科授業においても重視されていることであり、不易流行の「不易」に値する考え方であるといえるでしょう。
《引用参考文献》
現代道徳教育研究会編『道徳教育の授業理論 十大主張とその展開』(1981,明示図書)