2022/09/29

内容項目「生命の尊さ」(中学校)の学習内容


 中学校の内容項目「生命の尊さ」の系統を考えます。学習指導要領解説を読むと、どうやら1・2年生と3・4年生で、以下の図のように学習内容が異なるようです。


 

 教科書の教材配列も、このことを意識して学年ごとに設定されていると考えられます。

2022/09/28

内容項目「生命の尊さ」(中学校)


 中学校学習指導要領解説をもとに、内容項目D「生命の尊さ」の授業づくりについて考えます。解説によると、まずは自己の生命の尊厳や尊さを考えさせることが重要であると書かれています。そして、そのことを自己以外の生命の尊さへの理解につなげていくのだとあります。

 村上敏治も、生命の尊さについて、以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

ここにいう生命とは、単なる生物的生命にかぎることではなく、人格として生きていくことの価値を含んだ生命価値の尊厳をもったものである。括弧書きに「自他の生命を尊重すること」とあるが、これは生命価値の有する自己主体性と社会性とをよく表現したものである。自己の生命は自ら大切にしなければならない。しかし自己の生命を大切にするということは、他人の生命はどうでもよいということには決してならない。自己の生命を大切にすることを知っているものだけが、他人の生命を大切にすることができる

(以上)

 このように、中学校の「生命の尊さ」においても、まずは自分の生命の尊厳、尊さを理解(実感)させることが大事になります。


2022/09/27

道徳科授業における資料(教材)


 道徳科授業における資料(教科における教材)について、村上敏治は著書の中で以下の通り述べています。

(以下、著書より抜粋)

 一見拙いと見られる資料でも良い授業ができれば良い資料である。資料の適否は、ねらいに適合するかどうかということだけであって前述のように、一点に限定してねらいに向けて活用できるものである限りどんな資料でも活用できる。

 私の資料活用論の基本は、資料とは何かということである。結論的に言えば、資料は道徳的思考をみがく砥石であり、人間の生き方に直面する姿見であり、人生の地図を見て自らの立脚点を見つめる展望台に立たせるものである。一人ひとりの児童生徒が人生の展望台に立って自己を見つめることができるかどうかが道徳授業の成否の鍵であって、そのための資料である。そのような資料を100パーセント活用するというのが持論であるが、100パーセント活用するというのは一字一字に拘るということではない。資料の全体の持ち味を活かして、ねらいに向けるためのキーワードとでもいうべきものが最小限一つはあるから、そこを授業の重点として深めていくということである。

(以上)

 その授業での「ねらい」は何なのか。それを明確にすることが資料(教材)の有効な活用につながるということです。


《引用参考文献》

村上敏治編著「道徳授業技術双書4 小学校道徳 内容の研究と展開」(1983,明治図書出版)


2022/09/26

道徳科授業は難しいか


 道徳科授業は難しいという声があります。確かに、学べば学ぶほど難しさを感じることは事実です。ただ、その「難しさ」は何と比較してのものなのでしょうか。

 村上敏治は、著書の中で以下の通り述べています。

(以下、書籍より一部抜粋)

依然として道徳教育がむずかしいとか道徳授業がむずかしいとかいうようなことが今でも言われる。しかし他の各教科がやさしくて道徳授業がむずかしいという事実はあり得ない。各教科も本質的にはむずかしいのであって、単なる教科書による知識の注入に終始してるのは本来の姿ではない。かりに道徳教育や道徳授業がむずかしいとすれば、それは教育が本質的にむずかしいのであって道徳教育や道徳授業がそれじたいむずかしいのではなく、そこに教育の本質的課題に直面せざるえを得ないからむずかしいというにすぎない。

(以上)

 道徳教育(道徳科授業)は「教育の本質的課題」に直面するものであるという自覚を、授業者として常に持っておきたいものです。


《引用参考文献》

村上敏治編著「道徳授業技術双書4 小学校道徳 内容の研究と展開」(1983,明治図書出版)

2022/09/25

道徳科授業の課題


 村上敏治の道徳授業の手法に対する論が、現在の「特別の教科 道徳」をよりよいものにするためのヒントになります。

(以下、著書より一部抜粋)

道徳の授業の手法がわからないという教師の声が起きると、論者はこれに応じようとして一定の本質論や方法論が出される。ところが一義的に一手法に押しこめることはできないから、次々とさまざまな議論が現れて、議論の筋道が理解されないままにわけのわからない用語だけが独り歩きして、それらが雑然と盛り込まれて恣意的に用いられていよいよわからなくなる。いろいろの用語がそれぞれの議論の本質を離れて氾濫して、それらの用語を使わなければ道徳の授業が成立しないかのような受け取り方がなされている限り、道徳授業はわけのわからないもになるだけでなく、広く一般の教師が道徳授業を実際に行ってみようという意欲がいよいよ遠のいていく

(以上)

 現在の道徳科授業の課題が明確に示されています。この書籍は40年ほど前のものですが、当時からその課題が解消されないまま今に至っていることがわかります。実際、「多面的・多角的」や「深い学び」など、道徳科授業に関わる様々な用語が独り歩きしている結果、多くの教師が道徳科授業に対して苦手意識を抱いているように感じます。


《引用参考文献》

村上敏治編著「道徳授業技術双書4 小学校道徳 内容の研究と展開」(1983,明治図書出版)

2022/09/24

自らの生き方の根源に問いかける


 村上敏治は、道徳授業の課題について、以下のように述べています。

(以下、著書より一部抜粋)

道徳とは何かについての基本的理解がおきざりにされて道徳授業の技法ばかりが過剰になり、教師にとっても児童生徒にとっても、必然的教育課題になることなくそらぞらしいものになりがちである。だれでもが教育について考え語り得るし、だれでもが道徳について考え語り得る。それだけに各教師が自らの生き方の根源に問いかけることなく恣意的に皮相な見解に止まりがちであり、道徳についてのまちまちな誤解や曲解や偏見にとらわれている傾向がなお多い。

(以上)

 私たちが道徳科授業をつくる際、すぐに発問や展開などの授業構成を考えがちです。事後検討会でも、「この発問はよかったか」「児童生徒の反応はどうだったか」に終始しています。しかし、その前提である「道徳とは何か」、いわゆる内容項目そのものに

ついての議論はあまりなされません。

 「生命の尊さ」を扱う授業をするとした時、そもそも「生命の尊厳」とはどのようなことをいうのか、明確に説明ができるでしょうか。そして、その説明は皆が同じものでしょうか。「命は大切だ」というような曖昧な表現を用いて、その本質を考えることから逃れようとしていないでしょうか。

 教師こそ、まずは「自らの生き方の根源に問いかける」ことが重要なのです。


《引用参考文献》

村上敏治編著「道徳授業技術双書4 小学校道徳 内容の研究と展開」(1983,明治図書出版)

2022/09/21

道徳的行為発生のための「実践的三段論法」


 先日、道徳は「事実的知識」と「原則の知識」によって構造されているという、村井実の論を紹介しました。「原則の知識」をもつということについて、下図で再度説明します。


 

 ①の行為の原則を知るということは、道徳的諸価値の理解だと言えます。従来の道徳授業は、この理解で終わることが多くありました。②は、価値理解をもとに、多面的・多角的に思考することになります。そして、③はいわゆる納得解をもつということになりそうです。


《引用参考文献》

村井実『道徳は教えられるか』(1967,国土社)

2022/09/20

事実的知識と原則の知識


 

村井実は、道徳の構造を下図のように説明しています。


 

「原則の知識」とは、道徳的諸価値の理解について多面的・多角的に思考する力のことではないかと考えます。


《引用参考文献》

村井実『道徳は教えられるか』(1967,国土社)

2022/09/19

教育の中心点となる「道徳」


 村井実は、道徳教育は学校の教育活動の中心点であると論じています。



《引用参考文献》

村井実『道徳は教えられるか』(1967,国土社)

2022/09/18

自意識の規制

 ある会議での臨床心理士の方の言葉が心に残りました。

書くことには自意識の規制がかかる。読み手を意識しすぎて、自分の言葉でなくなる時がある。逆に、話すことは声に出してみないと何が起こるか分からない。何を話していいかが分かりづらく、不安にもなる。ぐるぐる頭を回しながら言葉を探し出すので、自意識はかかりづらい。ライティング・セラピーがあまり流行らないのは、そのあたりが関係しているのではないだろうか。」

 これを聞いた時、頭の中に道徳科授業でのワークシートが頭に頭に浮かびました。中心発問などでワークシートを書かせる授業をよく見かけます。その理由として、「書くことで頭の中を整理できる」「じっくりと自分の考え方を見つめられる」などが挙げられます。しかし、ワークシートに書かれる言葉には自意識がかかってしまい、子供たちの心からの言葉ではなくなってしまうかもしれません。そうであれば、悩みながら詰まりながらでも、「ことば(発せられる声だけではなく、視線や動作なども含む)」でやりとりをする方がよいのではないかと考えさせられます。

 もちろん、発達段階や学級の実態によってどちらが適しているかは異なります。ただ、

「中心発問では必ずワークシート」「ワークシートを使うべき(使わないべき)」というような、絶対的な「型」を一度見直してみてはどうだろうかと考えます。

2022/09/17

内容項目の系統性


 「道徳科授業は小学校1年から中学校3年まで同じようなことを勉強している」。残念ながら、このような声を聞くことがあります。果たして、本当にそうなのでしょうか。

 このことについて、学習指導要領解説を見てみます。例えば、内容項目C「公正、公平、社会正義」を発達段階ごとに整理してみると、その違いが明確になります。





 このように、内容項目には系統性があり、発達段階に応じた学習内容になることがわかりました。また、同じ発達段階でも様々な要素が含まれているため、教材に応じて学習内容やねらいは異なります。授業者がこのことをきちんと理解・整理することが、よりよい授業づくりにつながるでしょう。

2022/09/16

目標から考える授業展開


  特別の教科 道徳の目標は、「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため、道徳的諸価値についての理解を素に、自己を見つめ、物事を(広い視野から)多面的・多角的に考え、自己の(人間としての)生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる。」です。

 この目標を、日々の道徳科授業の構成に当てはめてみたのが、下の図(1)になります。内容項目は中学年「B 親切、思いやり」を想定しています。

 


このように整理することで分かることは以下の表の通りです。

道徳的諸価値の言葉としての理解だけでは、道徳科授業の目標を達成できない。

自己を見つめるためには、他者との対話が必要。他者に自己の考え方を語ることで自らの考え方や経験をふり返ることができる。

複数の立場の考え方に共感させることが大事であり、そのためには補助発問が必要になる。

終末の活動では、学習内容をまとめさせるだけではなく、それをもとに自ら(人間)生き方についても考えさせる。





このように整理することで分かることは以下の表の通りです。


自己を見つめるためには、他者との対話が必要。他者に自己の考え方を語ることで自らの考え方や経験をふり返ることができる。

複数の立場の考え方に共感させることが大事であり、そのためには補助発問が必要になる。

終末の活動では、学習内容をまとめさせるだけではなく、それをもとに自ら(人間)生き方についても考えさせる。


2022/09/15

社会構成主義と道徳(7)「対立解消のための手立て」


 参考文献の中で、「対立への対処」のための有望な実践の一つとして、「パブリック・カンバセーション」というプロジェクトが紹介されています。以下、そのプロジェクトを参考文献をもとに簡単に紹介します。

考え方の異なるグループを招待します。その際、すぐに議論には入らず、まずは食事を共にします。このとき、自分たちを分断する問題について話すことは許されません。そのため、食事の間の話題は仕事や家庭のことなどになります。たいてい、同じような人間性を持ち合わせているという感覚になるそうです。

ディスカッションが開始されると、それぞれの立場で主義主張を戦わせるのではなく、経験に基づいた個人的な話をするよう進行役が念を押します。参加者の多くは、その問題にまつわる自分が経験した苦痛について語ります。主義主張に基づいた議論は反発を招きますが、このような話であれば、参加者は共感して耳を傾けることができます。その結果、自分とは反対の立場の人間がなぜそう感じるのか、感情面から理解し始めることができるようです。

その後、参加者たちは自分の立場に対して感じている疑念についても話すよう指示されます。ここまでくると参加者は、反対の立場の主張に近い「第2の声」で話し始めるようになります。

このような話し合いの結果、新たな可能性が構成され始める場合もあります。「中絶反対派」対「中絶容認派」の場合を例に挙げると、参加者の間で中絶が選択肢となるような状況を防ぐために協力し合うという合意に達することがあるということです。

 この会話の効果の一つは、対立が段階的に縮小することだとガーゲンは述べています。参加者は立場を変えるよう求められてはいません(立場を変えたりもしません)が、反対側の立場をとる人をより共感を持って理解することができるようになるということです。

 さて、上記のプロジェクトを道徳科授業と置き換えて考えてみます。まず大事になるのは、「同じような人間性を持ち合わせているという感覚」です。これは、日々の生活の中で育むものであり、そして、導入の発問で感じさせられるものではないでしょうか。そうであれば、導入の役割の一つとして、「同じような人間性を感じさせる」という目的も考えられます。

 次に、「経験に基づいた話をする」ということです。主義主張を議論するのではなく、自分が経験した苦痛について語らせるということでした。道徳科授業では教材を使い、登場人物になって様々な問題の世界に入ります。登場人物の感じる苦痛や葛藤を語らせることが、このことに該当すると考えられます。

 そして、自分の立場に対して感じる疑念についても話すということについては、子供たちはそのような疑念に気づきにくいかもしれないので、補助発問や問い返しを通して自分の考え方を見つめさせます

 このように、道徳科授業の基本的な展開は社会構成主義の考え方と非常に親和性が高いと言えるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

ケネス・J・ガーゲン、メアリー・ガーゲン著『現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門』(2018,ディスカバリー・トゥエンティワン)

2022/09/14

社会構成主義と道徳(6)「対立への対処」


 道徳科授業で話し合いが活性化してくると、どうしても「意見の対立」が生まれます。この「意見の対立」について、社会構成主義の立場では、最終的に誰が正しくて、誰が間違っているかということは問いません。ケネス・ガーゲンは、対立の解決を目指すのであれば、「これらの相反する意味の領域同士を接近させるには、どうしたらよいか」が重要な問いになると述べています。道徳科授業でも近年注目されている「納得解」につながる考え方であるといえるでしょう。


《引用参考文献》

ケネス・J・ガーゲン、メアリー・ガーゲン著『現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門』(2018,ディスカバリー・トゥエンティワン)

2022/09/13

社会構成主義と道徳(5)「ミラクル・クエスチョン」


 個人が抱える困難さに焦点を当てる「プロブレム・トーク」に取って代わるものとして、社会構成主義の考え方を取り入れた問いの一例に「ミラクル・クエスチョン」と呼ばれる質問があるようです。例えば、「明日の朝目覚めたときに問題が解決していたら、どんな一日になりますか」と質問します。「ひどい過去」ではなく、前向きな未来に意識を向けることが、変化を起こす、より前向きなステップの第一段階となるからです。

 この「ミラクル・クエスチョン」は、道徳科授業でも有効だと考えられます。例えば、いじめ問題を扱う授業では、被害者の思いを想像したり、いじめを止められない人間の弱さを理解したりします。しかし、「弱さ」をいくら理解しても、その「弱さ」を「強さ」に変えることは困難です。その際、ミラクル・クエスチョンを参考にして、「もし、それを止められる強さや関係性があるとすれば?」と尋ねることで、子供たちは明るい未来を想像したり、自分が本当にやりたい言動を考えたりすることができます。その瞬間、子供たちの心に「小さな変化」が起こるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

ケネス・J・ガーゲン、メアリー・ガーゲン著『現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門』(2018,ディスカバリー・トゥエンティワン)