道徳科授業における教師の役割について、河野(2011)の論が参考になります。
(以下、抜粋)
子どもは、ときに経験不足である。自分の狭い範囲の経験しか知らず、人間の交際範囲も限られているかもしれない。歴史や文化比較の知識がないことから、現在の自分が住んでいる社会の出来事を相対化する視点に乏しいかもしれない。議論教育における教師の役割は、教室において欠けているかもしれない多様性をもたらすことである。多様で異質な観点を導入することによって、ピアジュ的な言い方をすれば、子どもの考えを脱中心的にすることができる。
よって、教師の役割は、老人になることであり、赤ん坊になることであり、文化的に異なったひとになることであり、別の地域の人になることであり、性的マイノリティになることで、過去の人物になることであり、障害や疾病を持った人になることであり、少数派の嗜好を代表することである。その人たちの観点から問題がどう見えるかを示唆することである。
(以上)
教師の役割は「教室に欠けている多様性をもたらすこと」という河野の提案に、私は「なるほど」と大きく頷くことができます。
《引用参考文献》
河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(ちくま書房,2011)
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