2022/05/07

経験を言語化する


 道徳科授業での「対話」では、「他者との対話」「教材との対話」「自分との対話」の3つの対話が必要とされています。しかし、この説明だけでは「対話」というものがどのようなものなのか曖昧であり、その必要性や効果がよくわからないという感想が正直なところではないでしょうか。そこで、「対話」についてオープン・ダイアローグの考え方をもとに考えていきます。なお、オープン・ダイアローグについてはこれまでにも紹介してきましたので、どうぞそちらをご覧ください。

 オープン・ダイアローグを開発したセイックラ(2016)は、言語とコミュニケーションが現実に意味を与えていくとしています。そのうえで、患者と家族と治療チームが対話をすることにより現れる効果を以下のように述べています。


(以下、引用参考文献より抜粋)

 患者は言語化しにくい経験を言語化し、語られていなかったことを語ることで、自分を圧倒してくる経験を他者と共有可能な空間に連れ出すことになる。そうして、対話によってその経験は新しく意味づけられ、患者は自分の経験から距離がとれるようになり、自分自身の人生に主体性を回復する(セイックラ/アーンキル2016 66)。

(以上)


 セイックラの言葉から道徳化授業における対話について考えてみます。ここで意識をしたいのは、何のために対話をするのかということです。例えば二項対立で活発な意見のやりとりがされているとします。止まることなく意見が出てきているので、一見すると「対話」をしているように見えます。しかし、これが道徳科が求める「対話」なのかと尋ねられたら、私は「違う」と答えます。

 道徳科では、対話を通して自己を見つめること、そして、自分の生き方を考えることを求めます。セイックラの言葉を借りると、「自己を見つめる」とは児童生徒の「言語化しにくい経験を言語化する」ということになるといえないでしょうか。そして、「自分の生き方を考える」とは、「経験に新しい意味をもたせる」ことで初めて可能になることなのだと、私は考えます。

 そうであれば、教材や発問を通してどのように子供たちの経験を想起させ、どのように言語化をさせるか(教材の人物になったつもりで言語化するというものも含みます)。発問を考える際に大事にしたい視点はこのようなことではないでしょうか。

 さらに、ふり返りの中でこれまで誰にも語ったことのない経験を語り(書き)たくなる。そのような授業作りを目指していきたいものです。


《引用参考文献》

石原孝二・斎藤環(編)『オープンダイアローグ 思想と哲学』(2022,東京大学出版会)

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